神楽坂のキャリアコンサルタント

永らく「神楽坂のキャピタリスト」のタイトルで発信をして参りましたが、この度タイトル名の変更を致しました。

ファーストリーディングかスローリ−ディングか

macky-jun2010-10-26

  平野啓一郎の「本の読み方 スローリーディングの実践」(PHP新書)を面白く読んでいる。このタイトルを見て、生意気な娘が「プッ!親父〜、今頃、本の読み方かよ〜?」と馬鹿にする。「そう、お前なんかが、まだまだ到達できない読書方法について、日々、俺は努力を続けているのだ」
 馬鹿な娘の話はこの位にして、話を進めよう。世の中、速読ばやりである。それは忙しい現代人にとって切実な願いである。速読の究極の姿として、斜め読みを更に進化させた「フォトリーディング」という手法がある。写真を撮るようにページを頭の中に画像記憶させるかのように、読み進めるのが「フォトリーディング」というものらしい。この提唱者が、神田昌典であり、本田直之であり、かの露出度の極めて高い勝間和代である。勝間和代はまさに神田昌典から影響を受けて、前向き効率努力本を書いている大家であろう。
 確かに、彼らのようにビジネス書やノウハウ本を読むのであれば、一字一句を味わう必要などないので、そこに書いてあるあらまし(だいたいのコト)を知るのに、「フォトリーディング」は効率的な方法であろう。それこそ、彼らの著作を読むには「フォトリーディング」で充分であるかもしれない。こう言ってしまうと、批判的で喧嘩を売っているようなので、訂正するが、私は神田昌典の「非常識な成功法則」は面白くて、ためになり、実にゆっくりと精読した。勝間和代は最初の頃の著作は彼女の特異な経歴とも相俟って、面白かったが、最近はあまりにも量産しすぎるせいか、内容が薄く、粗くなっているのは否めないと思う。ブックオフの105円コーナーに近頃よく出るようになったのは、その現われと思っている。まことに読者は馬鹿でないので、ごまかせないですぞ。
 「フォトリーディング」で70〜80%理解すればいいや、というのではなく、10冊の本を闇雲に読むよりも、1冊を丹念に読んだ方が、人生にとってはるかに有益である。平野啓一郎は、情報が氾濫する時代だからこそ、「スローリーディング」を提唱する。「本当の読書は、単に表面的な知識で人を飾り立てるのではなく、内面から人を変え、思慮深さと賢明さとをもたらし、人間性に深みを与えるものである。そして何よりも、ゆっくり時間をかけさえすれば、読書は楽しい。」
 平野は本書で、第1部「量から質への転換を」スローリーディング基礎編、第2部「魅力的な「誤読」のすすめ」スローリーディングテクニック編、第3部「古今のテクストを読む」スローリーディング実践編という構成で講義を展開している。芥川賞作家でもある平野は、「書き手はみんな、自分の本をスロー・リーディングしてもらう前提で書いているのである」と言う。ならば、読書を楽しむためには、書き手の仕掛けや工夫を見落とさないというところからはじめなければならない。
 私は本を読むのは好きだが、実は読むのがとっても遅い。これをずっとコンプレックスに思っており、溜って積み上がっていくばかりの本に、プレッシャーを感じていた。だけど、面白いと思った本を味わい尽すには、じっくりと読むしかないのだ。世の中の速読法ばやりの風潮に、乗り遅れている自分に些か焦りのようなものを感じていた。本書で、平野もまったく同じであったと知り、嬉しかった。また、彼が知り合いの作家に恐る恐る聞いてみたら、「実は自分も本を読むのが遅い」という人がほとんどだったという。
 第3部の実践編で、8篇の小説の一節をあげて、ケーススタディーを試みる。まるで、大学の講義のようである。しかも作品は、夏目漱石「こころ」、森鴎外高瀬舟」、カフカ「橋」、三島由紀夫金閣寺」、川端康成伊豆の踊子」、金原ひとみ蛇にピアス」、平野啓一郎「葬送」、フーコー「性の歴史 知への意思」である。読んだことのあるものが多かったが、こう読むのかと感心する一方で、文章の美しさ、凄さに感動した。これらから、「会話の中の疑問文に注目する」とか「違和感に注意する」とか「書き出しの一文に意味がある」とか「条件を変えて読み直す」とか「感想は何度も更新されるもの」・・・などの貴重なアドバイスがちりばめられている。
 読書人にとっては、(うちの娘は馬鹿にするけれど)いまさらということではなく、更に奥深く読書を味わうためにも知って欲しい技術が詰まった本である。最後であるが、確かに文学や哲学書や古典を読むにはじっくり「スローリーディング」するのがいいと思う。しかし、世の中にはそこまで時間をかけて精読、熟読すべき価値のある本ばかりでもない。現代人にとって、読まねばならない本や資料や新聞・雑誌の数は限りなく多い。そうしたものは「フォトリーディング」の手法が有効ではないかとも私は思っている。要は使い分けなのでしょう。