神楽坂のキャリアコンサルタント

永らく「神楽坂のキャピタリスト」のタイトルで発信をして参りましたが、この度タイトル名の変更を致しました。

(6)−江戸城の抜け穴伝説−

macky-jun2008-03-02

 東京の地下にはいろいろな穴が眠っている。江戸時代の終盤、神田に住む物知りの古老が伝えた話である。江戸城には3つの抜け穴があった。一つは本丸の天守台に近い井戸から湯島天神の社の下に抜ける。二つ目は西の丸吹上北西部の稲荷の社の下から牛込穴八幡の社の下に抜ける。三つ目は西の丸吹上西南部の井戸から赤坂溜池の社(現・日枝神社)の下に抜ける、というものでした。
 なかでも牛込穴八幡の抜け穴の話は有名らしい。毎年、穴八幡には初詣に行くが、こんな伝説があるとは知らなかった。穴八幡という名前の由来もここから来ているという説もあるらしい。この伝説にはもうひとつおまけ話があり、榎町に江戸時代慶安年間、由井正雪の屋敷があり、そこの大榎の根元の空洞からトンネルが2つの方向に掘られていたらしい。一つは、穴八幡の社の下に通じ、いま一つは正雪の屋敷から江戸城本丸に向けて掘り進められた。徳川幕府転覆を計った正雪にまつわる伝説として面白い。
 抜け穴の存在の真偽はわからないが、江戸城にはいくつかの間道があったのは事実らしい。ここ神楽坂にも江戸城が築かれる前に、牛込城という大胡氏(のちの牛込氏)の居城が16世紀にあった。今の光照寺と出版クラブ会館の周辺一帯にあったと言われており、空堀の跡が周囲の道路となっていたり、石垣の跡と思われるような遺跡が残っている。また、牛込城のあったこの周辺にも抜け穴伝説はあり、地元の古老たちの座談会では以下のように語られている。「ここは牛込、神楽坂」第7号(平成8年5月発行)によれば、光照寺住職の糸山氏が「寺敷地に深い井戸があり、明治の初めに井戸替えをしたら、横に穴があったので掘っていったら、百メートルも向こうの南蔵院の本堂に出て。そこで碁を打っていた人に、ここは地獄ですか、極楽ですかと聞いたら、極楽だって言ったという話が伝わっているんですがね(笑い)。」と語っている。また、「出版クラブ会館を建てるとき、敷地の古井戸に石を落して深さを測ったら、4,50メートルよりももっと深かったらしい」、「石材店隣の森本さんがビルを建てるとき、横穴がぽこんと出てきた。真四角で人間が這って通れるような穴で、これが噂の牛込城に抜ける穴かと」とか「万長酒店でも横穴が出てきた」とも語られている。南蔵院ばかりでなく、仮に筑土八幡に抜ける穴だとするとルート的には該当するかもしれない。
 城があるところには当然秘密の逃げ道である抜け穴はあったのだろう。たぶん当時佐渡金山や石見銀山があることから、穴掘りのプロが既にいて、技術的には可能だったのでしょう。それが何百年も経った現代でその穴はどうなってしまったのだろうか。わざわざ残土を持ってきて、埋め戻すようなことをしただろうか。それとも戦時中は防空壕としてでも使われたのだろうか。歴史のミステリーがいっぱい隠れている。空想が掻き立てられ 、実に楽しい。そこに入ってみたらタイムスリップしてしまったというような小説のようなことはなかったのだろうか。