神楽坂のキャリアコンサルタント

永らく「神楽坂のキャピタリスト」のタイトルで発信をして参りましたが、この度タイトル名の変更を致しました。

(15)外堀の話

macky-jun2010-07-17

 新宿区が「外堀」についてビデオを制作したということを新聞記事で読み、早速図書館で借りてきた。「歴史探訪 江戸城外堀ものがたり〜むかしといま〜」というタイトルの25分の短いVHSテープだった。いまどきDVDでなくVHSかよ〜!と思いましたが、内容はコンパクトに纏まっており、わかりやすい内容に仕上がっていました。下記URLのネットでも観ることができます。http://ch.yahoo.co.jp/shinjuku/index.php?itemid=38
 徳川家康は江戸の街づくりを積極的に進めましたが、「天下普請」という名で全国大名を招集し、江戸の大工事に参加させました。これは参勤交代と同じく、各大名の財力を削減する意味合いもありました。その中でも、1636年(寛永13年)に行なわれた飯田橋〜市ヶ谷〜赤坂見附に跨る外堀造成は最大の天下普請であったようです。
 城内の石垣工事は61の西国大名に担当させ、堀工事は52の東国大名が行ないました。伊豆・箱根の山から安山岩を切り出し、船で搬出し、運んできました。私が毎週通うジムの近くの市ヶ谷橋の石垣は江戸時代そのままのものが今もあります。また、牛込見附、四谷見附という城門の石垣もそのままのものであり、これらは各大名がその美しさも競っていたようです。この石垣工事はわずか40日で為されたとのことで、驚きです。
 基本的に外堀は神田川の谷筋と溜池を利用したものですが、市ヶ谷〜四谷〜喰違見附(上智大学グラウンドとホテルニューオータニの間)の1300mは高台でもあり、難工事だったようです。最大100mの堀幅、最大掘削地下13mも掘ったが、延べ2万人でわずか1ヶ月半で完成したというから、そのスピードには驚いてしまう。徳川政権の権力の強さを現わしているのでしょうか。掘削した土の量は107万㎥(東京ドーム1杯分)であり、主に土塁や低地の埋立てに使われた。
 外堀工事は江戸の再開発であり、街区の再整備でもありました。外堀内にあった寺は外に移動され、市ヶ谷や四谷に寺町が新たに形成されました。神楽坂にも横寺町という地名があります。町屋も同様に外に移動されました。幕末の江戸鳥瞰図を見ると、整然とした街並みが既に形成されていたことがわかります。
 これら外堀の史跡を見ようと思ったら、1989年に東京メトロ南北線工事の際に発掘調査したものを市ヶ谷駅に展示しております。また、文部科学省庁舎工事で発掘した石垣が構内に展示されているようです。外堀があることで、都心に水辺と緑の空間が残されています。ここ神楽坂も牛込見附から市ヶ谷見附に繫がる掘割があることで、魅力を何倍にも増しているように思います。
 じっくり楽しむとしたら、掘割を囲む外堀公園を歩いてみるのもいいでしょう。特に桜の時期は見事です。また、飯田橋駅脇のカナルカフェという水上カフェで、ボートを眺めながらののんびりしたランチもお薦めです。こうした歴史と自然の大空間が残された外堀の風景が私は大好きである。