神楽坂のキャリアコンサルタント

永らく「神楽坂のキャピタリスト」のタイトルで発信をして参りましたが、この度タイトル名の変更を致しました。

(3)−「東京の空間人類学」から−

macky-jun2008-02-03

 朝起きると雪が積もっていた。東京では珍しい積雪で、結局夕方までみぞれまじりながらもずっと降り続いた。子供達はバイトに出かけたが、さすがに雪道を往復30分以上歩く気になれず、ジムには行かなかった。土日と二日間ともずーと家に引きこもって、本を読み、専らPCに向かいブログを書いたり、他人のブログを読んで過ごした。
 今日は節分で毘沙門天善国寺や赤城神社では豆まきの行事がある予定だった。ネットで見ると外での豆まきはさすがに中止したようだ。福豆のみ配りますとのことだった。去年は土曜日だったので毘沙門天の豆まきに参加した。雪でなければ、折からの神楽坂ブームもあり、さぞや人出が凄かったことだろう。
 東京や江戸に関する地理・歴史本が好きで、見つけるたびにこれはというものは買ってきた。古本屋で昔の類書を買うことも多い。それなので我が家には「東京」関係の蔵書が数多くあり、何冊あるか数えたこともない。その中でも、永井荷風の「日和下駄」と陣内秀信の「東京の空間人類学」が気に入っている愛読書だ。この2冊は何回となく繰り返し読んできた。陣内秀信氏(*)の同書は単行本2冊と文庫1冊の計3冊も持っている。4年前に陣内氏が神楽坂に講演に来られた際にお会いし、持っていた本にサインを頂いたので、もう1冊購入した。その位、自分にとっては大事な本だ。(*)法政大学工学部教授:建築史・都市形成史
 陣内氏は東京という都市を学生たちとのフィールドワークをする中で読み解いていこう、というスタイルで研究を始めた。まずは下谷・根岸(台東区)のような震災・戦災を免れた伝統的な下町を題材とし、次に近代の東京を支えた<山の手>に視線を移し、江戸の古地図や復元図を片手に東京の山手線内側全域を歩いた。足裏で武蔵野台地の起伏を感じつつ、あちこちで古老の話を聞きながら、面白さにはまりこんでいったという。陣内氏の手法は自分の趣味である東京散策の上で大変参考になっている。
 「東京の空間人類学」の第1章で「山の手」の表層と深層として、マクロからミクロに視点を移し、キーワードとしての<敷地>として大名屋敷、旗本屋敷、組屋敷、谷間の町人地がどのように土地の姿を変えていったか、という分析を行っている。その中で、組屋敷の事例として神楽坂の、特に小生の住むエリアがあげられている。江戸切絵図と明治16年参謀本部地図が比較として載っている。現在も土地の様相は江戸の組屋敷の名残りが感じられる。単純だがそれもこの本を贔屓にしている理由の一つだ。陣内氏は神楽坂には元々造詣が深いようである。
 組屋敷というのは下級武士の屋敷であり、幕府の役職に応じて、組ごとに屋敷を決められており、今でいう官舎や社宅に該当するようなものだった。御徒組の屋敷というものが坂を登り切った台地状の地形にある北町・中町・南町辺りにあった。旗本屋敷が並んだ番町と違い、組屋敷は堀の外に形成され、四谷、市ヶ谷、小石川が最も早く開発された。牛込地区の古地図を見てもそれと分かるように、計画的に東西に伸びた道路と奥に深い短冊型の敷地が整然と並んでおり、現在も変わっていない。当時は土地もたっぷりあり、1筆(1家族)の敷地が100〜200坪という優雅さで、裏には菜園を作って生計の足しにしていたという。それが今は1筆=番地となっている。
 江戸時代の下級武士が江戸城まで出勤したように、現代版下級武士のような小生も毎日、中央に向かってせっせと出勤している。昔も今も宮仕えの身は変わらないなと微笑ましくなる。