神楽坂のキャリアコンサルタント

永らく「神楽坂のキャピタリスト」のタイトルで発信をして参りましたが、この度タイトル名の変更を致しました。

(11) 袖摺坂の謎 (続)

macky-jun2009-02-16

 会社から帰り、牛込神楽坂駅を出ると、袖摺坂が目に入る。それも、二つの袖摺坂が・・・。大久保通りの向うには区教育委員会が指定した袖摺坂が、そして、私が帰り道に上るのが元袖摺坂ではないかと言われるS字坂である。くね〜っと大きく曲がったこの坂を上る度に、今日あったことを振り返り、自分にとっていい一日だったか、などと自問しながら上って行く。そして、家にじき到着するので、この坂は職業人である自分と、家庭人である自分とを分ける、神聖な境界のような場所なのかもしれない。
 さて、枕はこの位にして、昨日の話の続きに参りたい。「新撰東京名所図会」(風俗画報臨時増刊明治37年)に、「箪笥町の東、岩戸町界に坂あり。袖摺坂という。崖地に雁木を設け折廻したる急峻の坂なり。而も坂路狭溢往来の人、互いに袖を摺り合わす故に名づくと。又乞食坂の名あり」と書いてあります。

 次に「御府内備考」(江戸幕府官撰の江戸地誌1828年)には、「坂、登凡十間程 右町内東之方肴町境に有之、里俗袖摺坂又は乞食坂共唱申候。袖摺坂は片側高台、片側垣根にて、両脇共至而せまく、往来人通違之節袖摺合候。」とあります。

 鳥居さんは、この2つの文献の表現と地図(江戸切絵図、参謀本部測量図ほか)に加え、ご自身の記憶をもとに、推理を進めます。それから、大信寺前の(袖摺)坂は昔はもっと広い坂であったことと、父親から聞いた話から、100%袖摺坂ではないと確信したと言います。http://www.teinenjidai.com/syumi/saka/h20/07/index.html
 それでは、本当の袖摺坂はいったいどこにあったのか?元標識のあったS字状の広い坂は彼が愛日小学校(北町)に通っていた時にはまだ無くて、昭和11〜16年の間に出来た新しい坂である。このS字坂が出来る前に、その辺りに「蛇段々」と呼ばれる細い坂があったらしい。学校の帰りに、その道を時々寄り道して帰ってくるのが、楽しみだったらしい。これが本当の袖摺坂ではないか、と推測している。99%確信している、と言われている。
 この坂は明治40年牛込区全図に載っており、今の岩戸町11番地の小高製本所と12番地のレベッカビルの間に細い道があった。岩戸町から袋町・北町の高台は6m以上の急な崖になっているので、左に曲がって斜めに登って行きます。そして登り切るとまた右に曲がる細道があって、それを出ると南部邸(昨年末取壊され、現在は空き地)の前に出ます。しかし、この「蛇段々」は当時の子供たちだけの呼び名であり、大人が袖摺坂と呼んでいたかは不明である。
 横関英一氏の「続 江戸の坂 東京の坂」P.150には「新宿岩戸町から、北町と袋町との境を、南へ上る坂が袖摺坂である。しかし、戦後はこの坂道もすっかり改修されて、大きな道幅の広い坂になってしまった。」とある。「江戸の坂 東京の坂」のP.121乞食坂の項にも、「牛込岩戸町にも乞食坂があった。本名は袖摺坂である。(略)幅一間にたりない狭い坂だが、古い形ばかりの低い段のある坂で、坂の西側に大きな榎があって、薄暗い坂の感じであった(しかし、これは戦前のことであって、今日では坂路が大改修されて、昔の乞食坂の面影はなくなってしまった)。とある。
 おまけに、昭和11年頃の乞食坂(袖摺坂)と、戦後何年か経った後の広い今のS字坂(袖摺坂)の写真が載せてあるのだ。残念なことに、横関英一氏のこの素晴らしい著作2冊は中公文庫として出版されていたが、いまは絶版となっており、殆ど入手は不可能な状況である。
 鳥居氏と横関氏の見解は、かつて存在した袖摺坂の位置については一致している。あとは、いまある広いS字坂を袖摺坂と呼ぶか、どうかの違いであろう。いずれにしろ、新宿区が指定する、現在の大久保通り反対側にある袖摺坂は間違いである、という点で一致する。
 現在ある坂の幅からすれば、いかにも区が指定するのが正しく思えてしまうが、地名というのは歴史的な意味や成り立ちがあって、ついているものであって、安易に変えていいものではない。かつて、新宿区(ばかりか都内、国内いたる所で)は行政上、町村名の大改訂を行ない、○○3丁目とか、数字名の、実に味気ない町名に強制的に変えさせた、という愚かしい前科がある。その際に、住民が一致団結して反対し、既存の町名を断固として守ったのが、この神楽坂〜牛込地区である。よって、この土地には箪笥町とか、納戸町とか、二十騎町とか、実に味のある、歴史を感じさせてくれる町名が残っているのである。この土地の人々の気骨に感動を覚えます。