神楽坂のキャリアコンサルタント

永らく「神楽坂のキャピタリスト」のタイトルで発信をして参りましたが、この度タイトル名の変更を致しました。

(22)今日は荒川河川敷に

macky-jun2014-04-13

 荒川河川敷にある新東京都民ゴルフ場に行ってみた。我が家から北に向かうこと車で25分、王子の少し先の鹿浜橋の袂にある9Hのゴルフ場である。このゴルフ場は開場が1955年の歴史あるコース。河川敷ゴルフ場の発祥の地ともいわれ、プロゴルファー青木功が中学卒業後にキャディーとして働いていたこともあったという。平日は9Hで3,800円、追加2,200円、4ラウンド目から無料。土日は9Hで4,800円、追加2,700円である。http://www.sttg.jp/
 ここも到着順にラウンドする。この日は60代の悠々自適と思われる退職ジイさんと中学生のジョン君と回る。ジョン君はアジア系の外国人、小柄なので小学生かと思ったが、中学2年生とのこと。公式大会にも出場している本格派らしい。なるほど大変上手であり、ジイさんや私を差し置き、オナーをなかなか譲ってくれない。482YDあるPar5のホールでは、2打目残り200YDをなんと2オン1パットのイーグルを決めたのにはたまげた。
コースは9H、1,965YD。広くは無いが池もバンカーもあり、Par5が1H、Par4が2H、Par3が6Hという構成だ。ドライバーも打つことができる一応本格的なコースである。更に上流には赤羽ゴルフ倶楽部が、対岸には川口パブリックゴルフ場が広がる。
 河川敷ゴルフ場に行くようになってから東京を流れる河川、特に人工的に造られた荒川に関心をもった。東京を東に行くと隅田川、荒川、江戸川を渡ると千葉にでる。この3つの河川でも荒川の規模の大きさは目を引く。荒川は元は「荒川放水路」と呼ばれた。1910年の大洪水の翌年に事業着手し、19年の歳月と延べ300万人以上が携わり、完成した。水の脅威から東京を救った世紀の大事業である。その為、川底に眠ることになった集落や道路や学校などもあった。多くの犠牲を払いながらも暴れる川から守る治水大事業として開削された。当時の人たちの苦労を思いながら、私は呑気にも少年とジイさんと球と戯れる。

はたしてSTAP細胞は存在したのか

macky-jun2014-04-09

 STAP細胞論文に関する疑惑が世間を賑わしている。4/1に理化学研究所理研)が調査報告をし、捏造・改竄(ざん)があったとし、小保方晴子ユニットリーダーただ一人に研究不正があったと認定した。それに対し、4/8小保方氏から不服申し立てがあり、4/9本日記者会見があった。
 そもそも今年1月に世紀の大発見としてマスコミに大々的に報じられた。小保方氏が若い可愛い女性であったこともあり、リケジョの星とか割烹着の姿とかが話題となった。しかしその後、ネット上でネイチャー論文での画像疑惑や早稲田大学院での博士論文からの画像利用や他の論文からのコピペ疑惑が噴出した。当初「STAP細胞の正当性」を強気に主張していた理研も、調査に乗り出し、不正認定を行ない、今回の泥仕合となった。私自身もこの間の成り行きを注意深く、興味を持って追っかけてきた。いったんはこぞって持ち上げ、いざ雲行きが変わると一斉にバッシングを行ない、関係ないと思われる個人の私生活の報道も含め、落とすところまで落とす、マスコミの節度のなさは毎度のことながら呆れることばかりだ。
 また理研側の対応にもがっかりした。「若い未熟な研究者の仕業」に結論付けたやり方はまるでトカゲの尻尾切りだ。私は決して小保方氏の肩を持つつもりはないが、そもそも「若い未熟な研究者」をユニットリーダーにさせた理研任命責任が問われる。また共同研究者はいったい研究や論文の矛盾が見破れなかったのか。世紀の大発見にただ名前を連ねたかっただけなのだろうか。上司の笹井副センター長や元リーダーの若山山梨大教授などに責任は無かったのだろうか。iPS細胞でノーベル賞を先に越された京大山中教授のライバルである笹井氏を組織として守る為のトカゲの尻尾切りなのか。笹井氏は一切会見の場にでてこなくなったが、自分を擬えた「ボディガード」ケビン・コスナーはいったいどこに消えてしまったのだろうか。
 理研側にも独立行政法人から特定国立研究開発法人への指定替えという組織課題があった。これが今回のSTAP細胞での勇み足になっていなかっただろうか。理研の年間予算は約900億円だが、その93%は国からのもの。特定国立研究開発法人になると予算も更に増額され、海外からの優秀な研究者獲得にもつながる。何としてもSTAP細胞で指定に弾みをつけたかったのではなかったか。
 小保方氏の画像の切り貼りや他の論文の盗用やコピペは単純なミスなのか、故意なのか悪意のないミスなのか、議論は分かれよう。しかし一流の研究機関に所属する研究者が悪いことや間違ったことと知らずに行なったというのはとてもお粗末としか言いようがない。確かにネット文化で育った若者たちは課題論文や卒論をコピペで書くことが常習化している。小保方氏も学生時代からそうした文化に慣れ切って育ってしまったのではなかろうか。そうしたことで彼女は得することはないし、どこかでばれるのは明らかなので、悪気は本当に無かったのかもしれない。単に論文作成や研究作法を正しく知らなかっただけなのかもしれない。ならば指導者たちの責任は重いし、理研の組織的な監督・指導責任は問われるべきなのだろう。今回の騒動は個人の問題として捉えられているが、我々がよく知らぬ巨大な研究機関伏魔殿「理研」という組織こそが問題の根幹ではないだろうか。
 さてこの日の小保方氏の会見ですが、一見謝罪会見の様相でしたが、自分の主張はしっかりする、相手の批判は一切しない、隙のない完璧な内容でした。涙目で「STAP細胞はあります」「作成には200回以上成功した」「論文は撤回せず」と強気でした。時に涙という女性の武器を使い、とてもしたたかな、小保方晴子はやっぱり大したタマでした。

(23)靖国神社奉納大相撲に

macky-jun2014-04-04

 靖国神社で恒例の奉納大相撲を観てきました。ここは桜の名所でもあり、満開でした。前日は一日中雨が降っていたので開催が危ぶまれましたが、すっかり晴れ渡り、暖かく春の陽気でした。ちなみにここ靖国神社は我が家から徒歩圏内の近さにありますが、奉納大相撲を観るのは初めてです。いつか来たいと思ってました。
 ちょうど着いたのが12:30少し前でした。12:30から力士の本殿への参拝が予定されています。大群衆の中、程なく始まりました。北の海理事長を筆頭に、大の国理事、白鵬日馬富士鶴竜の3横綱大関、関脇の中入り力士が続きます。人気者遠藤もいました。こんな近くで次々と力士を観れたのは初めてなので、いやがおうにも興奮します。
 本殿の北西の奥に土俵があります。ここでは大正時代には本場所も開かれたこともあるようです。屋根付きのなかなか立派な相撲会場です。この日は朝の10:40から序二段の取り組みが開始しており、三段目、幕下、十両と続き、中入りの取り組みは13:30からです。入場はなんと無料なのです。満席で入場できませんとの張り紙が会場外にありますが、事前にネットでチェックしてきたから大丈夫。まったく待つことなしに入場できました。
 朝から陣取っている人が多く、ブルーシートが敷かれていましたが、西出入り口の前で立ち見することにしました。土俵まではわずか10メートルの近さです。外人さんが多いのが特徴的でした。幕内土俵入りから横綱土俵入りまで観れました。先場所に横綱昇進したばかりの鶴竜の雲竜型の土俵入りは堂々たるものでした。まさにこのタイミングで鶴竜を観れたのはラッキーでした。
 さて中入り後17番の取り組み。本場所のように最後まで粘る相撲ではありませんが、関取たちのバチーンとぶつかる立ち会いは迫力満点でした。同格同士のぶつかり合いで、白鵬の取り組みはありませんでしたが、結びの一番は日馬富士鶴竜でした。日馬富士が当初優勢でしたが、土俵際で鶴竜日馬富士を吊り上げて勝ち、大いに会場が沸きました。桜舞う中、最高の一日でした。愉快な気分で自宅まで歩いて帰りました。

(21)河川敷ゴルフ場の面白さ

macky-jun2014-03-23

 河川敷ゴルフに嵌まっている。都心からそんなに遠くない所に恰好のゴルフ場があることに、車を買ってから気がついた。
 江戸川の柴又の先、矢切りの渡しで有名な地に江戸川ラインゴルフ場がある。ここはショートコース18Hとドライビングレンジがある。ショートコースは12Hと6Hの変則ながら、平日は2,250円、土日は3,200円で回り放題である。寅さん映画にも出てきたことのあるコースである。天気のいい日に呑気にラウンドしていると別世界のようであり、何ともいえない幸福感を感じることが出来る場所である。 http://www.edogawaline.or.jp/
 また、ここに併設されているドライビングレンジは 河川敷の広い敷地を使い、まさに打ちっ放しである。両側から打席が向き合っているのだが、400Y以上も距離があろうか。まず打ち込むことは無いようだ。料金も24球が300円、籠いっぱい120球で1,500円という嬉しい低料金だ。
  河川敷なので風が強い。特に春一番が吹いた日には2,3番手クラブが変わるので、とても難しかった。コースの芝はそんなにいい状況ではないが、悪いコンディションでの練習と思えばいい。いちおう池があったり、当然ながらサイドには江戸川が流れているので、クリークもある。私同様に一人で黙々とラウンドしている人も多い。私はここでひたすら苦手のアプローチの練習を試みるのだ。いつの日か、アプローチの名手になろうと黙々と白球を追っかけるのである。

別れは突然に(2)

macky-jun2014-02-24

 武蔵野赤十字病院に移り、兄弟家族も集まってきた。この晩、医師から診療の途中経過報告を3回受ける。今晩がヤマだと言われる。代表で私一人が残り、病院に泊まることにする。深夜12:30にICUにて面会許可が出る。意識はあった。家族仮眠室で宿泊、北側の部屋で雪も降っており寒かった。何時呼ばれるか気が気でなかった。2〜3時間はウトウトできただろうか。翌朝、7:50に面会できた。昨晩よりも目はパッチリと開き、アイコンタクトができた。「(母の)実家近くの武蔵境の病院に来たよ」の私の言葉も理解し、うなずき、何かしゃべろうとする。母の母、私の祖母も入院したことのある病院であり、ICUだった。心拍数、血圧、呼吸などの数値は安定した。内視鏡検査をしたが依然出血原因は不明。ホッとしていったん帰宅。
 夕方6時過ぎに再訪。弟が父を車椅子に乗せ、やって来る。意識もしっかりして数値も安定と医師が説明。動脈の点滴3本が抜かれ、明日、人工呼吸器もぬく予定との説明。安堵し帰りにハルクのデパ地下で買った刺身で、心の中で秘かにホッとし祝杯をあげる。しかし、その深夜3:06に無情にも携帯電話が鳴った。病院からだった。「容態が急変したので至急来てほしい。心臓が停止し人工マッサージを今やっている」とのこと。安定したと言われたばかりだったのに、何故?と半泣きしながら、妻の運転する車に乗り込んだ。わずか40分で到着。
 マッサージの効果あり、心臓はまた動き出し、一命取り留める。しかしながら、この後、母の意識は戻らず、あらゆる高度な検査を行ったものの、出血原因は特定できず。この朝の母の寝顔がやけに静かで、苦しんでいる様子などなく印象的だった。後に妻が語っていたが「この時点で義母さんの魂は抜けていたのではないか」
 この後に東京には2/8と2/14〜15と都心で27cmも積もるという記録的な大雪が降った。雪の中、皆が交代で見舞いに通ったものの、その甲斐もなく、母は2/16の夜に息を引き取った。最後まで出血原因についてはわからなかったが、全身から出血をしたのだろう。意識を失って既に10日、心臓停止時に脳梗塞も引き起こしており、もはや回復不可能との医師の判断だった。既に父や兄弟、母の長姉とも話し、大量輸血や人工マッサージなどの更なる延命治療はしてくれないよう医師には依頼していた。
 今後、雪が降るたびに母のことを思い出すことだろう。ちょっと前まで元気だった母が突然倒れ、13日間のICUでの治療の甲斐なく、あっさりと逝ってしまった。もっと母と一緒に居たかった。もっといろいろな話をしたかった。しかし、晩年の母は認知症が進行し、まともな会話はできなかった。突然のことのようだが、認知症故に伝わらない体の不調などあったかもしれない。82歳で母は人生を閉じることとなったが、みんなに見送られ、ある意味”ぴんぴんころり”であったので、幸せな生涯であったと言えるかもしれない。そんな思いが自分を慰めてくれる。

別れは突然に(1)

macky-jun2014-02-23

 別れは突然にやってきた。最愛の母を亡くしてしまった。2/16日曜日の夜8:05に母は静かに息を引き取った。最期は呼吸の間隔が次第に開いていき、眠るように旅立っていった。それがせめてもの救いだった。
 この1週間は嵐のような怒濤の日々が続いた。何しろ私にとっては初めてのことばかりだった。妻の両親を含め、親は4人とも健在であった。兄弟身内でも縁が無かったことは如何にも幸福だったからなのだが、まさかあの元気だった母がこんなにも早く逝ってしまうとは。
 2/4の会社に向かう朝、私の携帯に突然かかってきた電話から始まったのだった。母が昨年10月末から入った老人施設の所長さんから、「貧血がひどく、前日からお小水も細っている。病院に連れて行くが多分入院となるだろう。」との連絡が入った。年末、正月と全く元気だった母が1/8頃から、目の周りから内出血したり、脚が出血し、むくんで腫れあがった。腕や肩の痛みを訴えたり、調子が悪くなった。これまでも時々具合が悪くなることはあったが、直に好くなり、何も無かったかのようによくしゃべり、よく食べた。2/3は節分で恵方巻きをほうばって食べ、団子汁を美味しそうに食べていたと、その日訪ねた妹が語っていた。前の日は全く元気だったのだ。だから、私は病院に行き、診てもらえば、大丈夫だろうと楽観的に考えていた。そもそも貧血という表現を立ち眩みのように軽くとらえていたのが間違いだった。1時間後に病院に着き、容態が悪くなったので急いで来てくれと更に電話が入った。
 私は雨降る中、南武線南多摩にある稲城市立病院に急いだ。そこで内科医から説明を受け、出血の原因がよくわからないが輸血を行なうとの説明を受けた。暫くして妻がやってきた。母にはまだ会えなかった。何処で処置をされているのか。1時間も待った後だろうか、救急処置室に呼ばれた。そこにはとても苦しそうに横たわっている母がいた。医師からは「今にも心臓が止まってもおかしくない。輸血をするのにも内出血で腫れあがり、針も上手く刺せない。延命治療をどうするか。」などと苦しんでいる母が脇にいながらいきなりそんな驚くようなことを言われた。何を言い出すんだ。命を助けて貰いたいのは当たり前だろうと、ムッとしながらも「何としても助けて下さい」とお願いした。処置室は医師と看護師ら数人がかりで騒然とした雰囲気だった。
 あまりにも突然の展開に狼狽しながらも、兄弟や子供たちに至急駆けつけるように連絡をした。外は雪が降ってきた。母の心臓は動きだし、何とか一命はとりとめたかのようだった。医師との話を改めてした。「最善を尽くして欲しいが、治る見込みがなく植物状態になるようなら延命治療はして欲しくない」とも要望した。この時点で何が原因かもわからず、当然ながら治る可能性があるかなどもわからない。稲城市立病院はICUの設備と体制がないので、この日の夜に武蔵野赤十字病院に移ることになった。雪が降りしきる中、生まれて初めて救急車に乗った。大病したことのない母も初めての救急車ではなかっただろうか。
 
 

(20)めでたいのか、めでたくないのか

macky-jun2014-01-11

 週末土曜日の1月11日、所属ゴルフクラブの新年杯コンペに出場した。今年の初打ちティーショットはなんといきなりのOB。打ち直しはドライバーでナイスショットしたが、2、3打を無難につなぎ、ロングホールの花道に。ここまではOBのショックも克服し、良かった。次のAWでのアプローチが凍ってカチンカチンのグリーンを滑っていった。結局、ここで1往復半もしてしまい、更にガラスのようなグリーンはなかなか寄ってくれず、3パット。な、なんと今年の初ホールは11打も叩いてしまったのだ。
 コンペの1ホール目で早々に脱落してしまった私は、次のショートをパーで切り抜けたものの、厳冬期特有の難コースに苦しめられ、その後もピリッとせず、回っていた。この日ラウンドしたメンバーは初めてお会いした方ばかりだったが、凄い面々だった。一人はクラブチャンピオンのHD3のE氏、HD8のA氏、HD9のD氏。皆、60代ながら腕達者な方々ばかり。いきなり11打も叩いた私に、さぞや呆れ返ったことだろう。
 奇跡が起こったのは、最終手前の白ゆりコース8番Hであった。ドライバーはまず普通のショットであったが、左側ラフの緩やかな前下がりの斜面にとまった。残り150YDと少し、7番アイアンを握ったが、少し短いかなと思った。風はない。6番に替えにカートまで戻るのも面倒くさく、7番でしっかりと打つことにした。気持ちよく打て、勢いのあるボールがいい弧を描いていった。打球の方向はぴったりだ。ピンに真直ぐ向かっていく。何やらピンに近い所に落ちた。旗竿に当ったかと思うと視界から忽然と消えた。周りから歓声が上がった。「チップインイーグルだ」なんと、なんと!正月からめでたいことだ。
 実はイーグルを記録したのはこれで4回目であった。これまでの3回はいずれもゴルフにどっぷり漬かっていた30歳代の頃のことだ。ミドルのチップインは2度目、ロングで2オン1パットが1度、そしてホールインワンが1度あった。私のゴルフの腕前は大したことないが、イーグル4回というのは密かな自慢でもある(新年早々、自慢話で申し訳ない)。いきなり11打叩くこともあれば、終わり間際にはイーグルが飛び出すこともある。これだからゴルフはやめられないのである。