神楽坂のキャリアコンサルタント

永らく「神楽坂のキャピタリスト」のタイトルで発信をして参りましたが、この度タイトル名の変更を致しました。

別れは突然に(1)

macky-jun2014-02-23

 別れは突然にやってきた。最愛の母を亡くしてしまった。2/16日曜日の夜8:05に母は静かに息を引き取った。最期は呼吸の間隔が次第に開いていき、眠るように旅立っていった。それがせめてもの救いだった。
 この1週間は嵐のような怒濤の日々が続いた。何しろ私にとっては初めてのことばかりだった。妻の両親を含め、親は4人とも健在であった。兄弟身内でも縁が無かったことは如何にも幸福だったからなのだが、まさかあの元気だった母がこんなにも早く逝ってしまうとは。
 2/4の会社に向かう朝、私の携帯に突然かかってきた電話から始まったのだった。母が昨年10月末から入った老人施設の所長さんから、「貧血がひどく、前日からお小水も細っている。病院に連れて行くが多分入院となるだろう。」との連絡が入った。年末、正月と全く元気だった母が1/8頃から、目の周りから内出血したり、脚が出血し、むくんで腫れあがった。腕や肩の痛みを訴えたり、調子が悪くなった。これまでも時々具合が悪くなることはあったが、直に好くなり、何も無かったかのようによくしゃべり、よく食べた。2/3は節分で恵方巻きをほうばって食べ、団子汁を美味しそうに食べていたと、その日訪ねた妹が語っていた。前の日は全く元気だったのだ。だから、私は病院に行き、診てもらえば、大丈夫だろうと楽観的に考えていた。そもそも貧血という表現を立ち眩みのように軽くとらえていたのが間違いだった。1時間後に病院に着き、容態が悪くなったので急いで来てくれと更に電話が入った。
 私は雨降る中、南武線南多摩にある稲城市立病院に急いだ。そこで内科医から説明を受け、出血の原因がよくわからないが輸血を行なうとの説明を受けた。暫くして妻がやってきた。母にはまだ会えなかった。何処で処置をされているのか。1時間も待った後だろうか、救急処置室に呼ばれた。そこにはとても苦しそうに横たわっている母がいた。医師からは「今にも心臓が止まってもおかしくない。輸血をするのにも内出血で腫れあがり、針も上手く刺せない。延命治療をどうするか。」などと苦しんでいる母が脇にいながらいきなりそんな驚くようなことを言われた。何を言い出すんだ。命を助けて貰いたいのは当たり前だろうと、ムッとしながらも「何としても助けて下さい」とお願いした。処置室は医師と看護師ら数人がかりで騒然とした雰囲気だった。
 あまりにも突然の展開に狼狽しながらも、兄弟や子供たちに至急駆けつけるように連絡をした。外は雪が降ってきた。母の心臓は動きだし、何とか一命はとりとめたかのようだった。医師との話を改めてした。「最善を尽くして欲しいが、治る見込みがなく植物状態になるようなら延命治療はして欲しくない」とも要望した。この時点で何が原因かもわからず、当然ながら治る可能性があるかなどもわからない。稲城市立病院はICUの設備と体制がないので、この日の夜に武蔵野赤十字病院に移ることになった。雪が降りしきる中、生まれて初めて救急車に乗った。大病したことのない母も初めての救急車ではなかっただろうか。