神楽坂のキャリアコンサルタント

永らく「神楽坂のキャピタリスト」のタイトルで発信をして参りましたが、この度タイトル名の変更を致しました。

今度は父が・・・

macky-jun2014-05-13

  父が亡くなった。5/8(木)の14:17だった。朝、病院から連絡を受け、外科医師が「今日なるべく早くお話がしたい」とのことだった。予定をキャンセルして、中河原にある府中恵仁会病院に向かった。父は4/30に救急車で入院し、左肺に穴が空いてぺっしゃんこになっており、肺気腫と診断された。今後の治療方針についてだと思っていたが、今朝から容態が急変し肺炎を併発しており、延命治療をどうするかとの相談であった。医師としては一番頭の重い相談事であろう。しかし、2月に母を亡くした折に、父とも兄弟とも既によく話をし、合意済みであった。父は家で死にたいので、病院には行きたくないと拒んだ程だった。「一切の延命治療はして欲しくない旨、既に合意が出来ている」と伝えたら、「大したものですね。自分も同年代の親がいて、見習わねば」と妙に感心され、医師も緊張感から解放されホッとしたかのようだった。そして「本日中に家族の方々を呼んでください」とも言われた。
 父はこの朝から人工呼吸器マスクをされていたが、息苦しそうだった。私が来たのもわからない様子だった。5/4(日)の夜、ゴルフの帰りに寄ったら、だいぶ具合が良さそうで「スコアカードを見せろ。みんな下手だな。」などと珍しく他人に関心を示す程、余裕があった。私は兄弟に「親父が復活した」とメールを送った程だった。個室に移してくれ、南向きの明るい部屋で、これまでの感謝をこめ話しかけた。「ちょっと昼飯を食べに食堂に行って来るよ」と伝えたら、ずっと開けていた口を2回パクパクしたのだった。あとから思ったら、これは私に何かを伝えたかったのかもしれなかった。「俺はもう危ないので行くな」と言いたかったのかもしれなかった。最上階にある食堂で食べていると、看護師からの携帯への電話で呼び戻され、部屋に急いだ。容態が悪化した。荒かった息も次第に弱くなり、眠っていくかのようだった。明るい春の陽の光を浴びながら、父は静かに旅立っていった。
 母が2/16に亡くなってからまだ3ケ月も経っていなかった。母が入院して、父の食欲はめっきり細り、痩せて衰弱していった。この間で10数キロも体重を落とした。母が亡くなってからは一人で暮らす父が心配で、交代で訪ねて行った。3/15の誕生日には「俺は90歳まで生きる」と意気軒昂に宣言していたのだが、3/29の母の納骨の時にはすっかり弱っており、心配になった。男は奥さんに先立たれると弱いもので、2〜3ケ月で逝ってしまう人が多いと言われる。一方で女は旦那が亡くなっても益々元気に長生きする人が多いようだ。男女の何が違うのだろうか。
 父は84歳で天寿を全うしました。日本の男の平均寿命が79歳だとすれば十分長生きしたし、4年前に脳梗塞で倒れる前まで好きなゴルフも山登りもしていた。酒も煙草もやっていました。後遺症で足が多少晩年は不自由になりましたが、まずは健康で、病院で寝たきりになったのも最期の9日間だけでした。84歳のいい生涯といえるのではなかっただろうか。父は母が亡くなって、生きる気力を失い、後を追うように死んでいった。陽気な明るい母は天国でせっかく自由に楽しくやっているのに、こんなに早く父が来てしまったのかと眉をひそめているかもしれない。そんな二人が天上でどんなやり取りをしているのか、想像してみるのも楽しい。