神楽坂のキャリアコンサルタント

永らく「神楽坂のキャピタリスト」のタイトルで発信をして参りましたが、この度タイトル名の変更を致しました。

天災は忘れた頃にやって来る

macky-jun2011-03-25

  表題は馴染みの方も多かろうと思う。明治に生まれ、戦前の物理学者であり、随筆家、俳人でもある寺田寅彦の言葉であると言われている。というのも、彼の著作にはどこにも見当たらないようだ。防災に関する文章によく使われる有名な警句である。今村明恒「地震の国」(1929年)によれば、「天災は忘れた時分に来る。故寺田寅彦博士が、大正の関東大震災後、何かの雑誌に書いた警句であったと記憶している」とある。今村は東京帝大の教授で、関東大震災の調査を寺田と連れ立って出かけたことがあったらしい。
 寺田の著述には似たような文章が繰り返し登場する。「調査の必要から昔の徳川時代の大震火災の記録を調べているが、今度我々がなめたのと同じような経験を昔の人が疾う(とう)になめ尽くしている。それを忘却してしまって勝手なまねをしていたためにこんなことになったと思う。」「人間も何度同じ災害に会っても、決して利口にならぬものであることは歴史が証明する。東京市民と江戸町民と比べると、少なくも火事に対してはむしろ今のほうがだいぶ退歩している。そうして昔と同等以上の愚を繰り返しているのである。」
 関東大震災(1923年)は今回の東日本大震災のM9.0に比べれば、M7.9と低かった(阪神淡路M7.3)が、死者・行方不明者は14万人を超えた大災害であった。地震直接の被害よりも副産物である火災による被害が大きかった。時間がちょうど正午であり、昼食の準備等で火を使っている家庭が多かったこと、大半が木造の家屋であったこと、水道が止まり消防が間に合わなかったこと、等が原因であると言われている。
 寺田によれば、「文明開化中毒のために徳川時代に多大の犠牲を払って修得した火事教育をきれいに忘れてしまって、消防のことは警察の手にさえ任せておけばそれで永久に安心であると思い込み、警察の方でもまたそうばかり信じ切っていたために、市民の手からその防火の能力を没収してしまった。・・・人間というものが、そういうふうに驚くべく忘れっぽい健忘性な存在として創造されたという、悲しいがいかんともすることのできない自然科学的事実に基づくものであろう。」
 寺田は関東大震災地震でなく、火災によってもたらされたものであると認識し、江戸時代の大火と比較しています。明暦の大火(1657)は死者10万人以上といわれた。江戸の町は幾度も大火に見舞われ、延焼を防ぐための空閑地の増設や寺社の移転、瓦葺や土蔵の奨励、町火消し(消防隊)の新設などの防火対策を行ないました。
 今回の大震災の被害の多くは津波によるものです。福島原発事故の直接的原因も津波です。全て想定以上のものが起きたからと説明されていますが、三陸沖ではここ100年でも何度も大きな被害に遭ってきました。防波堤の高さ一つとっても、備えはもっと過剰であってもよかったのでしょう。これを教訓にして、地震からは逃れられない宿命を背負った日本は、より先進的な防災対策を試みる必要がある。そうでなければ、「俺が警告したことが生かされていないな」と、寺田寅彦が草葉の陰で泣くことでしょう。
 寺田はこうも言っています。「ものをこわがらな過ぎたり、こわがり過ぎたりするのはやさしいが、正当にこわがることはなかなかむつかしい。」