「ぼくのボールが君に届けば」
先日読んだ伊集院静の「ぼくのボールが君に届けば」から、気にいったフレーズを抜き書きしてみました。近頃の私はどうも野球の世界からなかなか抜けられないようです。この作品は9つの短編集から構成されており、どれも野球をモチーフにしながら、いろんな人と家族とのせつない、哀しい、甘酸っぱい抒情的な話が多い。
伊集院静は1950年生まれの60歳だが、この作品群は2001〜2004年に書かれたものであり、ちょうど私と同じ年齢の頃の作品だ。情景の描き方、ストーリーの展開、面白さ・・・プロの作家の巧さを感じる。私も青春野球小説に挑戦しながら、尻尾を曲げて逃げざるを得ない巧さだ。また、この作家を気に入ったのは、野球ばかりか東京の街の描き方の巧みさでもある。男坂女坂、聖橋・・・「東京は丘の多い街である」などというフレーズから展開する話が好きだ。
彼が直木賞を取ったのは「機関車先生」という防府での自伝的小説だった。始めは自分自身に題材があるので、そこから書き始めるのだろう。私もそうだというか、私にはそれしかないのが残念だ。野球を通し、少年の交流、家族のこと、心の問題を語っている。モチーフはある意味で何でもよく、何を伝えたいかがポイントであろう。そこに面白みを盛り込めればこの上ないことだろう。
「あの時、どうしてあんなにときめいたのだろう。見上げたボールの先は、どうして青空だったのだろう。いとしい人とひとつのものを見つめた、あの思いがよみがえる、9つの物語。」
「青空にさ、ボールが舞い上がった時、皆がそれを見上げてるんだ。・・皆がひとつのものを見てるってことが、俺は好きなんだ」
「キャッチボールは相手の胸をめがけて投げるんだ。強いボールを投げなくていいんだ。相手の人に、こうして、ほらっ渡すよって感じで・・・・。」
「このボールはおまえの胸の中にあるもんが、そのまま出よう。真っ正直にやっとれば、真っ直ぐ放れるし、真っ直ぐ飛んでいく。このボールの中には、おまえのことをいつも見てくれとる者が隠れとるんじゃ」
「野球というゲームはチームプレーに見えて、実は選手一人一人は孤独な面を持っているスポーツだ。ボールを二人で一緒に捕ることができないように、プレーはいつも一人で乗りきらなくてはならない。」
「一人であるが一人で戦っているのではないことを確認し合うことが失策を防ぐことになるし、好プレーを生むようになる。そうしてゲームに勝利すれば皆で喜びを分かち合える。声を掛け合うことは、勝敗以前に野球の何かを分け合っているのでは、」
「京治はキャッチボールが好きだった。キャッチボールをすると、相手の性格や野球への想いがはっきりと伝わってくる。どんな下手な仲間でもキャッチボールをすれば、受け止めたボールの重みで相手の野球への想いがわかる。柔らかな球筋に、相手の胸の中にあるものがこめられている。」
「人の根って失敗したり、敗れたりして、悔みを持つことで育つもんじゃないでしょうか」
「哀しみは分かち合えないってことだ。哀しみだけは一人でかかえて、耐えなきゃしようがないんだよ」
「サッちゃん、気張らなくていいんだ。皆誰もが迷って生きているんだから」
この作品を読んで、堪らずキャッチボールをしたくなってきた。キャッチボールというものがとても素敵に描かれている。人の人生はさまざまである。人はボールと一緒に、お互いに心のキャッチボールを行なっているのだろう。読後感がとても爽やかな作品だった。