神楽坂のキャリアコンサルタント

永らく「神楽坂のキャピタリスト」のタイトルで発信をして参りましたが、この度タイトル名の変更を致しました。

 白球を追って(12)-フィナーレ

macky-jun2011-02-28

  時は純一が3年生の9月で、目黒5中のグラウンドにいた。平日の放課後だというのに、生徒は誰もいなかった。静まりかえった他校のグラウンドにいたのは、純一たちの目黒11中と対戦相手の目黒7中の野球部員だった。野球の秋季区大会第1戦であった。3年になってから純一たちは堂々と野球を始めた。いくつか練習試合を他校ともやった。当時、目黒区に野球部があったのは、東山中・1・5・6・7・10中の6校のみであり、半分の学校にしかなかった。スポーツとして人気が一番あるにもかかわらず、都内の学校特有の問題でどこもグラウンドが狭いからだった。
 1中とやった初めての練習試合ではWヘッダーをやり、1勝1分けと上々のスタートだった。この時、純一は初勝利をあげた。いつになくコントロールが安定し、球も走ったのだ。こんなこともたまにはある。当時、グラウンドも広く、バックネット等設備も整った、東山中が一歩抜きんでていたが、あとのチームとはどっこいどっこいの実力だった。だから、正式な野球部ではないものの、純一たちにも十分勝機はあった。何としても区大会でいい成績を上げて、野球部への昇格を学校側に認めさせたかった。だから、この一戦を目指し、みんなで練習に励んできたのだ。
 野球としては初の公式戦でもあり、みんなコチコチに緊張していた。先発した純一の肩は重かった。思うようにボールが走らない。カーブを多投した為、肘も痛かった。そんな調子だったので、試合は荒れた。しかし、仲間もミズタのホームランを始め、よく打った。乱打戦だった。善戦したが、力及ばず2点差で負けた。あっけなく、初の公式戦に敗退した。これは純一たち3年生にとって、最後の試合ともなった。
 純一がキャプテンとして後を託したのは、正岡君であった。だいぶ後になって知ったのだが、その正岡君はなんと正岡子規の一族らしいのだ。子規は我が国にベースボールを持ちこみ、野球と名付けた功労者だとも言われている。彼は”のぼさん”と呼ばれ、だから”ノボール(野球)”だという。真偽はわからない。後に野球用語を翻訳し、「打者」「走者」「飛球」などとも名付けたらしい。正岡君は当時そんなことは少しも語らなかった。このことも真偽の程は確かめていない。だけど、野球の神様がもし仮にいたとしたら、そんな由緒・所縁のある人と一緒に白球を追えたことは何とも幸せなことであっただろうか。
 また、正岡君の同期N君、T君は東海大相模高校に進学した。当時の同校は一級上に現在巨人軍監督の原辰徳を擁し、甲子園でも上位に入った強豪チームだった。そこで原たちと一緒に野球をやった。雑誌に練習中の集合写真が載って、原のすぐ後ろにいる彼らを見つけて、「頑張っているな」と純一は思った。
 それから数カ月後のことだった。卒業間際の校庭での朝礼でのことである。我々の後を継いだ後輩たちが区の春季大会で3位入賞となり、表彰された。堂々と学校の朝礼の場で表彰されたのだ。しかも、校長が読み上げた表彰状には「目黒11中野球部殿」とあった。「(後輩たちが)ついにやってくれた!」と純一は心の中で喝采し、喜んだ。僕らの代で果たせなかった夢(=野球部昇格)を後輩たちが果たしてくれたのだ。この後、我らが男子ソフトボール部は正式に野球部に昇格することになった。またこの何代か後の後輩たちは、区大会での優勝まで果たしたようである。   (The End)