神楽坂のキャリアコンサルタント

永らく「神楽坂のキャピタリスト」のタイトルで発信をして参りましたが、この度タイトル名の変更を致しました。

白球を追って(8)-秘密の特訓

macky-jun2011-02-22

  純一の背番号は10番だった。これはソフトボールチームのキャプテンは10番というのがお決まりであったからだった。大学野球と同じルールだ。本当は小学校でつけていた11番が、学校のナンバーと同じであり、良かった。もしくは、エースナンバーの1番か18番か。我々には先輩もいなかったから背番号も思い思いにつけた。阪神ファンのモンタは田渕が好きだから22番とか、カワイくんは長嶋の3番とか、好き放題だ。背番号10番を付けていて困ったことがある。私が先発して投げると必ずや「エースを出せ〜!」と敵チームからヤジられるのだ。高校野球でいえば、背番号10は控え投手の番号だからだ。
 エースでキャプテンになった純一は2年生の頃から、秘密の早朝トレーニングを開始した。ちばあきおの漫画「キャプテン」の谷口タカオくんの様な心境だった。自宅のある中根町を出て、呑川沿いを走り、小学校または中学校のグラウンドでサーキットトレーニングをした。50m走×10本、懸垂、登り棒、ウサギ飛び・・・。そして、大岡山、緑が丘を走り抜け、自由が丘から東横線の線路沿いを走り、自宅に帰った。約2.5kmのコースだ。冬の朝はまだ暗く寒かった。だけど、習慣化すれば苦にはならなかった。
 また、この頃、何を勘違いしたか、ボディービルの本を買って、トレーニングにボディービル・メニューを入れた。自宅では鉄アレイを購入し、エキスパンダーを引っ張たりもした。ムキムキの体に憧れたが、そのようにはならなかった。だけど、短距離走はだいぶ速くなった。全般的な運動能力も高くなったかもしれない。しかし、成長期のこの頃、こんな無理なトレーニングをせずに、ゆっくり寝ていればもっと背が伸びただろうにと高校生になってから悔んだ。思考錯誤の勘違いトレーニングも、良かったり悪かったりだ。
 日曜日の夕刊のみの「東京ポスト」というフリーペーパーの夕刊が当時あって、その新聞配達をバイトとしてやっていた。八雲地区が担当で、そのエリアを薄い新聞とはいえ、500〜600部配るのである。もちろん、自転車など使わず走りながら配るので、結構なトレーニングになる。襷に厚いビニールのシートに包み、ドスンと重い新聞の束を抱えながら走る。1年生の頃はまだ体も小さかったから、その重さがかなりしんどかった。だけど、1軒1軒「東京ポストで〜す」と言いながら、軽やかに配り歩くのは気持ち好かった。毎週、日曜の夕方が拘束されてしまうのは辛かったが、とてもいい経験だったし、体力もついたと思う。
 当時の中学は当然ながらバイトは禁止であっただろう。だから、この話は仲間には黙っていたかもしれない。純一がこんなバイトをしていたなんて知らなかっただろう。たいして割のいいバイトではなかったが、月にして4〜5千円は貰っていたと思う。トーヨーボールというボーリング場の裏にあった閑静な住宅街である柿の木坂にある、Iさんという上品なご婦人が自宅で配送所をされていた。とても優しい方だった。このバイトには後日談があって、25年後、純一が銀行のさる支店の課長であった時、この「東京ポスト」を発行していた会社を担当することがあった。縁というのは不思議なものだと思った。