神楽坂のキャリアコンサルタント

永らく「神楽坂のキャピタリスト」のタイトルで発信をして参りましたが、この度タイトル名の変更を致しました。

白球を追って(7)-飛翔

macky-jun2011-02-21

   翌年、男子ソフトボール部は課外クラブに正式に昇格した。まだ名称はソフトボール部のままだった。だけど、やっと他のクラブと同格の立場に立てたのだ。課外クラブになるやいなや、当初からの目論見通りに、我々はあっけらかんと野球の練習を始めたのだった。グラウンドの隅っこにブルペンとして土を盛り上げてマウンドを造った。バッティング素振り練習用に倉庫の裏の柱に古タイヤを巻きつけ装備した。
 これも体育の先生であった藤谷先生があったればこそだった。先生は職員室も区の協会も全部根回しをしてくれたようだ。これで野球の大会にも出れることになり、我々はソフトボールとのニ刀流で行くことにした。堂々とマウンドを造る我々に文句を言ってくる者など誰もいなかった。我々が既に3年生となり、上級生がいなくなっていたというのが幸いしたようだ。
 元甲子園球児だった先生こそが、野球に最も拘りを持っていたようだった。いまの学校教師にはあまりいない「型にはまらない自由に生きる情熱家」だったと、純一は何年か後に回想し、藤谷先生に出会えた幸運をひたすら感謝した。また、メンバー全員が「野球をやりたい」という思いが一つになったことが、創部の強い原動力となった。
 ユニフォームも帽子のマークも、自分たちでデザインをしたんだ。みんなで教室に集まって、ワイワイガヤガヤと、アイディアをぶっつけた。帽子のマークは目黒のMと11中の11をデザインしたもので、黒い帽子に赤と白地の文字のバランス、なかなかのデザインだとみんなで悦に入った。ユニフォームは純一の好きな中日ドラゴンズのブルーをベースに、みんなの意見を盛り込んでいったら、まとまりのない派手なモノになってしまった。試合に行くと対戦相手のチームは普通、白と黒が基調の地味なユニフォームが一般的であり、かなり我々は浮いていたようだ。しかし、それを作ってくれたスポーツ用品屋さんも、たかが中学生の無理な注文によくつきあってくれたものだ。誠にいい時代だった。
 最終的に、部員は我々3年生が8名、2年生が9名、1年生が15名、新設クラブとしては異例の32名という大集団で発足した。この人数でグラウンドをかけ声をあげながらランニングするのは壮観だった。「11中〜ファイ・オー、ファイ・オー・・・・」2列もしくは3列縦隊で、ザックザックとスパイクの音を響かせ、グラウンドを何周もする。グラウンドの土はスパイクの痕でめくりかえる。砂埃が巻き起こる。練習中のサッカー・バレー部員の視線が集まる。ここにやって来るまで大変苦労したので、とっても嬉しかった。気持ちのいい時間が流れていた。