神楽坂のキャリアコンサルタント

永らく「神楽坂のキャピタリスト」のタイトルで発信をして参りましたが、この度タイトル名の変更を致しました。

白球を追って(3)-ミュンヘンの星

macky-jun2011-02-16

 遊び好きな純一であったが、小学6年の時には中学受験にチャレンジした。クラスの秀才たちが日進という日曜のみの受験進学塾に通うと聞いて、純一も背中を押されるように通うことにした。結局、遊びの方が楽しかったようで、受験は惨敗に終わり、区立中学に進学する。
 入学してみて、またまたショックを受けた。この学校には野球部が無かったのである。当時の子供たちが一番好きなスポーツであるにもかかわらず、野球部が無かったのだ。しょうがないので、純一はバレーボール部に入部した。この学校は野球部こそなかったけど、体育会系クラブ活動はとても盛んであった。
 特にこのバレーボール部は名門クラブであり、翌年(1972年)のミュンヘンオリンピックで金メダルを取り、活躍した木村・嶋岡というレギュラー2名を輩出しており、都大会の常連どころか優勝さえしたことのあるクラブだった。伝統的なクラブ故に理不尽な因習もあったのだ。ある時、先輩たちが区大会で優勝を逃してしまったことがあり、連帯責任ということで、1年の我々さえも全員坊主頭になることを命じられた。翌日、みんな5分刈りにしてきたのだが、小柄な池下君のみ床屋さんに「5厘刈りにしてくれ」と間違えて言ってしまった。青々としたまさに坊さんのような頭で登校してきたから、みんな大笑いしてしまった。
 バレーボール部は名門であり、折からの人気スポーツで注目されており、女の子にもてるだろうと不純な動機で入部した奴も多かったので、凡そバレー選手らしからぬ奴も多かった。純一もその中の一人だった。
 この部の2年生にBさんというとんでもない先輩がおり、この人のしごき、イジメが激しかった。特に小柄だった1年生がターゲットにされた。砂場でネックハンギングにされ、突き落とされ、埋められてしまったことがあった。そんなイジメが常態化していた。純一自身はイジメのターゲットにならなかったが、友達がそんな目に遭わされているにもかかわらず、何も反抗できない自分がつくづく情けなかった。他の先輩も彼の暴力が恐ろしくて何も言えなかった。真夏の炎天下での特訓にも耐えてきたが、結局、純一は球拾いしかさせて貰えず、つまらなくなり辞めてしまった。
 その後、純一はテニス部に転部した。可愛い女子部員が多いという、これまた不純な軟派な動機であった。いまだに女子部員のスコートの白さが強烈な印象に残っている。そんな不心得者であったから、長続きなどしよう筈もない。