白球を追って(2)-遊びの世界
外で遊ぶ子供たちを近頃は見かけなくなった。おそらく今の子供たちは自宅でファミコンにでも興じているのだろう。都会では自動車は多くて危ないし、そもそも遊び場となる空き地や野原がない。昭和45年はまだ街の至るところに空き地があり、そのデコボコで草が茫々と生えた土の上で、子供たちは駆けずり回りながら、群がって遊んでいた。
純一が野球をする場所は家のすぐ近くと中学に隣接する大きな空き地であった。いずれそこにもマンションが建ってしまうのだろう。しかし、工事が始まるまでは俺たちのホームグラウンドだ。そんな意識で我が物顔で、暗くなるまで泥だらけになって遊んだ。今の子供に比べれば、純一たちの時代の方が遥かに幸せだったように思える。
純一は内外問わず、いろんな遊びが好きだった。当時流行っていた男の子の遊びといえば、小学校3年生の頃はサンダーバード、GIジョー、そして5・6年生の頃はタカラのアメリカンゲーム、特に人生ゲームにはみんな嵌まった。そして、バンカースにモノポリーという資産運用ゲーム、切手収集、戦車のプラモデル工作、野球盤・・・。遊び好きなのであらゆるものに手を出した。
当時、切手が投機対象となっており、物凄い勢いで価格が上がっていった。将来の自分の職業を予感し、血が騒いだのか、夢中となった。日本郵趣協会が出している切手の専門書を読んで、通常の交換ごっこでは飽き足らず、オークションを始めた。小学5年の男の子たちがMineとかYoursと言ったかわからないが、BidとかOfferという言葉を使っていたような気がする。これについてはある父兄からPTA会でチクられ、親から叱られたことがあった。純一はそんなませたガキだった。
野球盤ゲームでは実在のプロ野球チームを友達に割り振って、勝敗を記録するばかりか、各選手のスコアーを取り、打率や防御率計算をしたりもした。これもその後の純一の仕事、データ分析につながるような遊びだった(ここでは賭場のような真似やましてや八百長などしていません)。遊びのアイディアを考えるのが得意で、仲間を巻き込むのが上手かったのだろう。自然と彼の周りには友達が集まってきたようだ。