神楽坂のキャリアコンサルタント

永らく「神楽坂のキャピタリスト」のタイトルで発信をして参りましたが、この度タイトル名の変更を致しました。

白球を追って(1)-夕暮れのグラウンド

macky-jun2011-02-14

 10数年前のとある日のことであった。中学の同窓会に出席する為、久々にこの地にやってきた純一は、母校を見てから行こうと足を伸ばした。東横線都立大学の駅で降り、暗渠となった呑川沿いを歩き、薄暗くなりかけた頃、彼が卒業した中学校に辿り着いた。駅から15分も歩いただろうか。
  母校のグラウンドに行ってみると、そこには見慣れないバックネットが設置されているのを発見した。しっかりとコンクリート土台と金網で造られた本格的な野球専用バックネットだ。在学当時に最も欲しかった設備だった。我々の頃は練習の度に、竹竿に巻いた網の簡易なネットを用意した。感動して純一は胸がいっぱいになった。するとその時、目の前に、偶然にも、軟球が転がっているではないか。軟球はあたかも何かを語りかけているかのようだった。誰もいない、静まりかえった夕暮れのグラウンドは不思議な空間で、時間がそこだけ止まっていた。涙がこぼれてしまいそうなほど感動的な瞬間であった。
 「そうか、あの野球部はまだ存続していたのだ。」純一はその時、40歳になったばかりだった。卒業からは既に25年、四半世紀も過ぎ去っていた。卒業してから、何故か一度も母校を訪ねたことがなかった。思い出は大事にする反面、それにすがりつこうとはしない性格だった。高校に行けば高校の生活があり、大学でも、社会人でもそうだった。目の前にある自分の世界をがむしゃらに生きてきた。というと格好良過ぎるけど、そう生きるしかない程、心の余裕がなかったのだと思う。現実の生活に前を向いて生きて行くので精いっぱいだった。
 さて、時は昭和40年代中頃まで遡る。牧原純一は小学校5年生だった。この年の3月から大阪で万博が開催された。昭和39年の東京オリンピックに続く、国際的な大イベントに世の中は浮き立っていた。日本はまさに高度成長時代の真っ只中にいた。場所は目黒区の南西部、まだ周辺には野原や畑もあった。いずれ、それらの土地はマンション開発されてしまうのだが、その空き地で子供たちは学校が終わると、集まってきて草野球に興じるのだった。現代と違い、当時は空き地は囲われておらず、土管等の建築資材が転がっていようが、自由に遊ぶことができた。子供が怪我をして、文句を言うようなモンスターペアレントの様な信じられない人種は、当時は存在しなかった。自分でリスクを採るのが当たり前であり、他人に責任を転嫁するような馬鹿な親はいなかった。だから、土地オーナーも開発業者も自由に使わせてくれるような、のどかないい時代だった。
 純一は元々運動神経はそんなに良くなかったが、地肩が強かったので、野球だけは結構上手かった。球技のような技を要するスポーツが得意だった。肩のよさからピッチャーをやることが多かったが、ファーストにも憧れ、ファーストミットを買って貰った。キャッチャーミットも持っていたし、バットも3本も持っていた。父親は純一がスポーツをすることにはとても協力的だった。というのも小さい頃、気の弱い性格だった彼を、キャッチボールに引っ張りだしたのも父親だった。やがて、社宅にいた仲間の子供たちと三角ベースの野球に入れてもらい、段々野球にのめり込んでいくようになった。