何故信長は光秀を追い詰めたのか(2)
織田信長のパワハラは明智光秀に向けられたばかりではなく、羽柴秀吉や柴田勝家や徳川家康やその外の家臣にも行なわれた。光秀への厳しい仕打ちは謀反話(本能寺の変)をストーリー付けようと、後世さまざまな講談・俗書・小説・映画・ドラマにて解釈が試みられたようだ。
すなわち、部下の誰かが、上司信長との緊張関係に耐えられず、暴発する可能性を常に秘めていたといえる。その位、信長という男が目指していた天下布武(統一)というのは大事業であり、部下に厳しいプレッシャーを与え続け、粛清の嵐の中で統率をとることで初めて整っていったといえよう。たまたま最初にブチぎれたのが光秀であったともいわれている。
実は本能寺の変には、光秀自身の野望説、怨恨説、四国征伐回避説、焦慮説、発作説があり、更に、朝廷や足利義昭やイエズス会や羽柴秀吉や徳川家康の黒幕説のほか、諸説たくさんあり、日本歴史上最大のミステリーの一つと呼ばれている。歴史の真実は藪の中である。