神楽坂のキャリアコンサルタント

永らく「神楽坂のキャピタリスト」のタイトルで発信をして参りましたが、この度タイトル名の変更を致しました。

日本シリーズと二子玉川の思い出

macky-jun2010-11-04

 日本シリーズ、昨日は難しい試合を何とか征したが、今日はあっさり大差で負けてしまった。全く勝てる気がしなかった試合だった。1回裏に1−4と逆転されてからは、ズルズルと点差が開いた。幾ら打たれても、落合監督は中田を替えなかった。第6、7戦と最後までもつれ込むことを予期し、今日は投手陣の無駄遣いをまったくしなかった。清水-久本と完全な敗戦処理のパターンだ。敗戦処理投手に廻る投手の気持ちは如何ばかりか?シリーズに出れないよりはまだましか。好投している投手を惜しげもなく替えたり、落合の采配は時によく分からないことがある。
 多分、見切りが早いのだろう。今日は4、5回で負け試合をもう意識したのだろう。俺自身も適地千葉マリンスタジアムでやる今日の試合は、負けてもいいと思っていた。勝率7割5分の名古屋ドームが待っているのだ。名古屋では既に第1戦で負けている。だから、あと2連勝すればいいのだ。それでペナントレースと同じ勝率7割5分だ。吉見、チェンでくるだろうドラゴンズにとって、決して難しい話ではない。最後までもつれ込んで、第7戦で地元ファンを喜ばせて、完全優勝(リーグ戦・CS・日本シリーズ全てでの優勝)すればいいのだ。落合野球はつまらないと言われるけど、じっくりと手元の戦力を計算し尽くして、全員で勝つ。それが落合野球ではないかと思っている。また、中日ドラゴンズらしい戦い方だと思う。
 今週も、「ブラタモリ」を観た。今日は二子玉川だった。「にこたま」とも呼ばれ、住みたい街上位ランキングの街である。「にこたま」は駅前のショッピングセンターを中心にお洒落な街が拡がり、特に女性人気が高い。古い街が好きなタモリは最初、明らかに気乗りのしない様子であった。しかし、この街の昔の写真を見て、今と照合し、昔を知っている人たちの話を聞いていくうちに、惹き込まれてくる。どの街にも歴史がある。
 この街はその昔は多摩川べりの観光地として、料理屋が並ぶ、ちょっとした近郊のリゾート地であった。私自身もこの街には思い出がある。小学校高学年から中学を卒業するまで、東横線都立大学駅の近くに住んでいた。当時、中学のグラウンドが狭かったので、目黒区の運動施設であった砧グラウンドを借りて、よく練習をしていた。東急田園都市線二子玉川駅で降りて、砧行きのバスに乗って、バス停から多摩川の堤防を歩いて、グラウンドに向かった。中学の体育大会もここの陸上競技場で行われた。何故、目黒区のグラウンドが世田谷区に在ったのかは、今もって分からないが、おそらく当時は目黒区の方が宅地化がより進んでおり、区内に広いグラウンドなど確保できなかったせいであろう。
 野球のグラウンドはA〜Eまで5面もあった。間を東名高速道路が通っていた。野球部監督のF先生の提案で、練習の合間にキャンプと称して、多摩川の河原で、飯盒炊飯でご飯を炊き、缶詰で昼飯を食べたことがある。写真は当時の貴重な一枚である。思い出がいっぱい詰まった街である。当時の二子玉川には、玉川高島屋以外は殆ど何もなく、周りは田畑が広がっていた、まさに田園風景だった。自由が丘や渋谷の都会が馴染みのませたガキだった我々にはとても田舎な、ノスタルジックな街だった。砧バス停にある1軒のよろずや(昔のコンビニ)で食べたおでんの味が忘れられない。