神楽坂のキャリアコンサルタント

永らく「神楽坂のキャピタリスト」のタイトルで発信をして参りましたが、この度タイトル名の変更を致しました。

(16)「酒井忠勝と小浜藩矢来屋敷」特別展に

macky-jun2010-09-19

  ジムに行った後に、自転車で四ッ谷の「こうや」に昼食に寄ったが、連休のためか休みであった。新宿通り沿いにある「太陽のトマト麺」という初めて入った店で、太陽のラーメンとこの店お薦めのラーリゾを食べる。たっぷりのイタリアントマトを素材に作られたスープをベースにした細麺のラーメンで、仕上げに残ったスープでリゾットにしてしめるのが、お薦めらしい。外にも太陽のチーズラーメン、太陽のボンゴレ麺とか、およそラーメン屋らしくないメニューが面白い。
 この日は自転車だったので、軽快に少し涼しくなった街を快適に走り抜けた。新宿歴史博物館に「酒井忠勝小浜藩矢来屋敷」特別展を観に行く。神楽坂の矢来町一帯が酒井家の下屋敷であった。酒井忠勝は三代将軍徳川家光の信認が篤く、家光はこの下屋敷に140回以上も御成りをしている。矢来町という地名もこの屋敷が竹矢来で囲まれていたから付いたようだ。その酒井家に関わる品が展示されていた。
 酒井忠勝は家光より17歳も年上であり、家光の守役から年寄、大老と出世する。将軍に一番近い家臣であり、家光亡き後に、4代将軍家綱の後見人を任された程だから、相当な実力譜代大名であった。教養溢れ、剛毅にして質素な人物であり、家宝も絢爛豪華なものは一切なく、実に質素なものばかりだった。また、ここで生まれた「解体新書」で有名な杉田玄白に関連する資料もあった。
 しかし、屋敷は広大であり、御殿のほか泉が湧く池のある大庭園があった。鉄砲場や弓稽古場、普請方から細工場、学問所までがあった。また、敷地の南側には長安寺を設け、酒井家代々の墓所になっていた。大名が屋敷の敷地内に墓を設けるのは極めて稀であり、酒井忠勝の実力・権勢を現わしていると学芸員が解説していた。
 実は私はこの酒井家の下屋敷のあった敷地にある銀行の社宅に永らく住んでいた。明治に入ってからも敷地はだいぶ縮小したものの、華族酒井家の屋敷としてずっと存在していた。その庭園は名園であったようだ。明治時代の古地図を見ると、華族屋敷がぽつぽつとこの辺りには見うけられる。どれも広大であり、いったいどんな生活をしていたのだろうと思われる。銀行の社宅として酒井家から購入したのが昭和34年12月と、資料にはあった。ここにあった茶室が当時の浜田山グラウンドに移築され、ここは今では杉並区立柏の宮公園となっているが、いまだ現存している。 
 江戸時代に大名一族やその家臣たちや家族がここで生活し、仕事をし、学んだ。杉田玄白もここで生まれた。明治に入り、華族がここで別世界を過ごし、銀行の社宅となってからは多くの銀行マンの家族がここで生活をした。私の娘、SAOもここで生まれた(杉田玄白と一緒だ。)。