神楽坂のキャリアコンサルタント

永らく「神楽坂のキャピタリスト」のタイトルで発信をして参りましたが、この度タイトル名の変更を致しました。

「ダウンタウンに時は流れて」

macky-jun2010-09-04

  図書館からの催促の電話に背中を押されるようにして、借りていた多田富雄著「ダウンタウンに時は流れて」を一気に読み切った。新聞に紹介されていた書評を読み、早速予約していた本だった。にもかかわらず、次から次から先に読まねばならない本が現れ、後回しになってしまっていた。しかし、読み出したら面白く、3時間ほどであっという間に読めたのだった。
 多田富雄さんは有名な免疫学者であり、抑制T細胞の発見で、学会の権威になった。一方で、能楽にも造詣が深く、幾つかの新作能の作者としても有名である。2001年67歳の時に、脳梗塞で倒れ、右半身不随となり、言葉まで失ってしまった。しかし、本作は重度の障害を負った後に、慣れない左手でパソコンを打って、書かれたものである。
 2003年から2009年にかけて、幾つかの雑誌等に掲載されたエッセイをまとめたものだ。人とのつながりや時間をテーマにした小説風エッセイとなっている。米国デンバーに留学時代の思い出を辿ったものが中心になっており、「私の青春の黄金の時を思い出した。それも、涙でキーボードが何度も見えなくなるまで、切実に思い出した。」と書いている。彼の下宿先トレゴ家、通ったダウンタウンの場末の酒場リノ・イン、チエコさんとの思い出。脳の病に倒れ、まして言葉を失ったにもかかわらず、描写は鮮明で、しかも美しい日本語で書かれている。人間の能力というか、多田さんの凄さに驚いた。
 「いとしのアルヘンティーナ」(アルヘンティーナは妻のことを歌った詩)では、あまりにも不自由になった自分を嘆き、毎日どうすれば死ぬことができるかを考えたと書いている。彼が自死を選ばなかったのは、妻の献身的な介護のためだったという。妻は「10年間は何が何でも生かす。77歳のお祝いをしたら死んでもいい。その時は許してね。」と言った。
 彼の方でも心境の変化が現れる。「実際、脳梗塞になる前より、私は物事を深く考えるようになった。他人のことも、以前より理解できる。頭がよくなったようだ。体が利かなくなってから、確かに寛容にもなった。時には、不思議に高揚して、全身を詩に満たされることもある。壊れた脳に新しい回路が作られたらしい。」と不思議なことを書かれている。人間というものはある機能を失うと、残された機能が研ぎ澄まされて、特別な力を発揮するものらしい。そう考えていくと、耳の聴こえなかったBeethovenがあれだけの優れた楽曲を創れたのもわかるし、三重苦のヘレンケラーの活躍も理解できる。この人間の持つ機能の素晴らしさに静かな感動を覚えた。多田さんは今年の4月、10年間を待たず、旅立たれた。