神楽坂のキャリアコンサルタント

永らく「神楽坂のキャピタリスト」のタイトルで発信をして参りましたが、この度タイトル名の変更を致しました。

なぜ小説を書き始めたのか

macky-jun2009-09-27

  昨晩は、20世紀中年の集会ということで、恵比寿の「鉄玄」という店でジンギスカン料理を食べたのだった。店のはからいで、「ウコンの力」を頂き、飲み始めた。肝臓が弱っている気がしていたので、俺個人としてはとても嬉しかった。彼らから「なぜ小説を書き始めたのか?」と聞かれる。「なぜだろう?」自分にもそうした問いを発したことはなかった。エッセイだと現実にあった事実なので、差し障りがあるからなのかと思った。たまたま小説という新しい手法で書くことを試してみたかっただけかもしれない。
 彼ら曰く、小説風「神楽坂のキャピタリスト」シリーズよりも、僕の日常的スタイルの何でもあれ、の雑文の方が好きらしい。おそらく僕のブログの読者は2層に分かれるのではないか、と見ている。タイトル通りのキャピタリストとしての文章を期待している層と、彼らのような何でもあれの雑文を期待している層である。僕自身は両方ともが自分のスタイルであり、また今後も常に変身をし、いい意味で期待を裏切り続けていくことだろう。
 しかし、小説はまだ書き始めたばかりではあるが、架空の嘘話を書いていいのだから、気楽な半面、主人公の設定とか、つい自分に似てきてしまうし、実際の話に限りなく近づいてしまう。思いっきり、空想上の世界を楽しめばいいのだが、未熟なので、そうはならない。確かに実話に近い自伝的な小説というものも、確かにあるし、部分部分や、主人公の性格の一部は作者のものであることが多いのだろう。作者は架空の自分を使い、文章の世界で遊んでいるとも言えるのである。
 この日は中学仲間の男女であった為に、話題は30数年前の世界と現代を行ったり来たりした。この時点で、中学生の自分たちは現在の自分がそうであったと思っている(願っている)自分であるし、それは小説の上での空想上の主人公と同じなのかもしれない。友が認識している自分というのも、彼らが空想する(記憶している)自分という登場人物であり、実在の自分とは微妙に違っているのかもしれない。
 そう考えると、我々というのは小説上のある人物についての会話をして、その設定を愉しみ、解釈していることにもなる。そうした不可思議な行為を愉しむのが、大人なのかもしれない。ジンギスカンを美味しく食べ、韓国焼酎のどぶろくのような酒を飲み、次はプレハブ造りの安居酒屋に河岸を変え、また酒を飲み続ける。酒に酔い、こちらの思考回路もだんだん怪しくなり、昔話はますます小説のような世界に突入していく。こうした会話の世界を捻ることで、いくらでも小説の世界は拡がっていくような気がしている。