神楽坂のキャリアコンサルタント

永らく「神楽坂のキャピタリスト」のタイトルで発信をして参りましたが、この度タイトル名の変更を致しました。

小説風「神楽坂のキャピタリスト」(8) Real Estate ForeverⅠ

macky-jun2009-09-25

ここは本郷三丁目にある住宅展示場である。男が目にしたのは東大の脇に出来る分譲マンションの申し込みに並ぶ人たちの列である。先頭の人は数日前から既に並んでいるとのことであった。家族が交替で昼夜並ぶか、アルバイトでも立てているのだろう。時は1996年も終わろうとしていた年末のことだった。バブル経済の下で、地価が高騰して、サラリーマンの買える住宅は都心から郊外に遠のいていく一方だった。都心が空洞化し、郊外に郊外に伸びて行く。これをドーナッツ化現象と呼んだ。通勤に1時間半から2時間もかけて通う人も珍しくなかった。それが1990年のバブル崩壊で地価は下落。一転して、住宅の都心回帰現象が現れ出したのである。本郷三丁目はこの現象を如実に現わしていた。
 これが男とこの分譲マンションを手掛けるJ社との出会いであった。J社は都内でマンションデベロッパーとして展開する中堅不動産会社であり、設立が1980年代半ばで、年商50億円、経常損益4億円、社員120人の会社で、42歳のT社長が経営する会社だ。時代は90年代半ばであり、バブルがはじけ、不動産業界には銀行の所謂“三業種規制”で資金が出ず、成長の壁となっていた。当時、銀行は個別企業の業績ではなく、一律「不動産業だから・・・」という理由で与信をしなかった。大京長谷工不動産ほか大手不動産デベロッパーがバブル時代の後遺症で過大な負債を抱え、銀行としても不良債権として大変な重荷となっていた。
 男はJ社の建てた物件や現在工事中の物件を小まめに見て回った。投資案件の審査にあたっては、現場にまめに足を運び、会社の特色・実態を把握するのが大事である。そこから感じることのできたJ社の特色は、地型の悪い東京都心部の土地を安く仕入れ、設計・デザインの技術を効かせ、魅力的な物件に仕上げる能力だった。例えば、備前焼のタイル張りのマンションを売り物にしたりもしていた。また、夜討ち朝駆けの機敏な営業で、他社よりも少し高めに売ることのできる営業力が強みであることがわかった。土地の仕込みは全てS社長が目を通して、決めていた。S社長の土地に対する目利き、情報ネットワークを活かした物件の仕入力も強みであった。
 J社の業績はマンションデべロッパーとしては小粒ながら好調。但し、銀行与信の制約が成長力には足枷となっている印象が拭えなかった。95/6期よりIPOを目指し、監査法人が入り指導中であった。ショートレビューでは整理すべき不良資産及び子会社関係資産を指摘されていたが、既に95/6期より処理を開始し、97/3期に処理完了が見えていた。 
 男はJ社を審査してみて、ほかの中堅不動産会社にもいい投資チャンスがあることを感じた。バブル期に傷んだのは大手企業(大京長谷工・・・)であって、中堅中小業者は銀行から資金調達が出来なかったがゆえにB/Sは傷んでいなかった。環境としては都心回帰の動きが始まっており、中堅中小の不動産会社に成長できる土壌があるのではないか、と考えた。J社への投資案件の投資採算は良好と目され、男は投資を実行した。また、審査会の席上で、このような中堅不動産会社をシリーズとして攻めて行こうと提案し、賛同されたのだった。男にとっては自分の考えが受け入れられ、気持のいい瞬間を味わったのだった。