神楽坂のキャリアコンサルタント

永らく「神楽坂のキャピタリスト」のタイトルで発信をして参りましたが、この度タイトル名の変更を致しました。

小説風「神楽坂のキャピタリスト」(3) 再出発

macky-jun2009-09-12

 男は93年末に発令を貰い、丸の内の本店を離れることになる。次なる発令はVC会社への出向だった。会社は10数人の小所帯で、青山1丁目にあった。銀行や商社の本社が並ぶ殺風景な丸の内・大手町とは違い、お洒落な街の一角にあった。このビジネスのセンスを象徴するような立地だと思った。妻に公衆電話から、出向の発令が出た旨、伝えると「あなた、左遷されたの?」と言われた。「確かにその通りかもしれない」と男は応えた。しかし、男にとっては何だかちょっぴり嬉しい発令だった。メインストリートを歩むエリートコースから外れたような気がしたが、自分らしさを活かせる仕事ではないか、と思った。
 東京に帰って来てから、忙しいポジションにばかりいたので、帰宅は深夜になることが多かった。若かったので、遅くまで仕事をして、それから街に繰り出し、飲みに行った。そうだ、この6年間はバブルを前後して、浮かれて沈んでと振幅が激しい時期でもあった。時代も昭和から平成に代わった。仕事の内容も激務が多く、枢要な仕事を若いのに任されもした。初めて経験することも多く、経営トップ絡みの仕事では緊張の連続であった。そのさなかで「サルコイドーシス」なる難病になってしまった。原因はわからなかったが、こうした激務や心理的な負担が、少しずつ自分の体を蝕んでいたのではないか、と男は思った。
 青山の並木街が自分を歓迎してくれているような気がした。産銀系VCである産銀インベストメントは、英国7iと産銀とのJVで90年に設立したばかりの会社であり、英文名は7iBJと称した。産銀から社長と専務を出し、7iからはThomas Jacksonという英国人専務が派遣されていた。7iはサッチャー政権での産業再生で活躍した名門会社で、VCというよりはMBOの会社であり、世界中に拠点網を拡大していた。産銀にとっても7iとのJVで、後発ながらベンチャーキャピタル業界に参入するのは実験的な試みであった。メンバーは産銀からの現役出向者が大半であり、外に産銀系証券会社からの出向者が2名いた。人数も少ないので、極めて家族的な会社であった。大組織にずっといた男にとっては目新しかったのと同時に、ほっとするのだった。
 男は支店時代に企業審査を3年間も経験し、ノウハウを蓄積していた。産銀は長期資金を産業界に供給するのが業務なので、その産業が将来どうなるのか、その中でこの会社のポジションはどうなっていくのか、中長期的な先見性が問われる。その企業に対する取り組み方針を決める為に、あるまとまった期間(1〜2ヵ月間)で企業を調査するのが審査の仕事である。企業の決算上の粉飾を見抜くのも、大事な役割であり、地方銀行の役職者に対して、若いのにもかかわらず審査役と一緒に研修講師をしたこともあった。また、審査結果を経営者に対して、フィードバックし、喜ばれたことも多かった。
 当時の産銀は若者にも重要な仕事をどんどん任せ、育成するのを教育方針としていた。自由闊達な雰囲気で、行員を伸び伸びと育て、つまらない管理は一切しない。基本的に性善説な会社で、行員を信頼し、行員も会社を信頼する、懐の大きい稀有な銀行だった。難病のため海外勤務の話が無くなったことが一番の理由だったろうが、企業審査の経験者であること、営業経験があること、そして7iとのJVであることから国際業務経験があること、これら全てがたまたま適合したのが、男がこの会社に送りこまれた理由だったようだ。