神楽坂のキャリアコンサルタント

永らく「神楽坂のキャピタリスト」のタイトルで発信をして参りましたが、この度タイトル名の変更を致しました。

小説風「神楽坂のキャピタリスト」(2) 挫折

macky-jun2009-09-11

 男は八橋大学を卒業し、戦前は政府系銀行で、戦後に長期信用銀行という業態で民間銀行転換した日本産業銀行に入行した。男が初めてVCのビジネスに入ったのは93年末のことだったが、それまでの話を少し辿ってみたい。北国にある地方支店で一通りの銀行業務を経験し、海外研修派遣で1年間ドイツに行った後、彼が発令された部署は国際営業部外資系チームであった。国際業務と営業をやりたいと希望した通りのポジションだった。後に頭取になる黒崎の肝いりで出来た戦略部隊であり、留学制度でMBAを取った者たちが多く集められた、いわばエリートチームだった。ここに3年半在籍し、最初は四苦八苦したものの、在日外資系企業の新規開拓で10社以上の大成果を上げた。
 彼が次に発令されたのは、国際業務部という海外ビジネスの本部であった。ここで男は欧州チームに所属し、ドイツデスクを任された。ドイツ語圏拠点であるドイツ・スイス・オーストリーの証券現法・銀行支店の拠点政策・管理を担当した。かつて黒崎が歩んだのと同じルートを辿っていた。経営トップともなった黒崎頭取、石澤副頭取から直接呼び出しもある、彼らに近いポジションで仕事をした。黒崎はドイツ語圏から客が来ると、ドイツ語で対応するのを自慢にしており、ドイツ語を話せなかった部長や課長からお鉢が回ってきて、朝食会やランチミーティングに同席させられた。男にとっては誇らしい気持ちと苦痛と複雑なものがあった。というのも男はドイツ語が得意ではなかったのだ。わずか1年の滞在で学んだものなので所詮は大したものではなかった。英語も帰国子女でもなく、学校英語の領域を出なかった。だから、苦痛以外の何物でもなかった。さはありながら、銀行の中枢を男は順調に歩んでいるかのように見えた。
 この間、男には海外の証券現法からのラブコールが何度もあった。1年間、海外研修で遊ばせて貰ったので、当然の赤紙召集であった訳だった。営業部や本部時代に粉骨砕身して、拠点に貢献したのも、好感された理由だった。しかし、結局彼はこの後、海外勤務することはなかった。海外で仕事をするのは男の学生時代からの夢でもあった。そして、そのチャンスの多そうな総合商社や銀行を選んで面接試験を受けた。結果的に国際業務展開の盛んな産銀を選んだのだった。
 男は30歳を過ぎたある日、突然さる難病に侵されることになった。症状はまったく無かった。定期検査で肺のレントゲンに拳大の大きさの陰影が写っていた。有無を言わせず、直ぐ検査入院しろということになり、信濃町にあるK大学病院に入院させられた。病気らしい病気をしたことのなかった男は狼狽した。何が起きたのか、分からない不安な気持ちが彼を暗くした。忙しい毎日を過ごしていた彼が、突然ただベッドに寝てるだけの生活に放りこまれてしまった。検査は一日に1つか2つだった。肺に水を入れて洗浄し、組織の細胞を取った時は苦しかったが、それ以外は退屈な検査の日々が続いた。ただ、結果が出るのを不安な面持ちで待ち続けたのだった。大きな陰影だったので、癌であれば咳が出たり、呼吸が苦しくなったりする筈だった。医学の知識は無かったし、医学書を呼んでも不安が増すだけなので、ただただ結果を祈るような気持ちで待ち続けた。1週間後に出た検査結果で、診断された病名は「サルコイドーシス」という聞いたこともないものだった。
 この病気は国内で1万人位の患者がいるらしい。原因不明の病気なので、難病指定されている。彼自身も原因は思いつかなかった。何故、自分がこんな病気になってしまったのか。しかし、この病気は悪くなると、肺、心臓、眼に症状が現れ、最悪死んでしまうこともありうるが、そのまま自然治癒することも多いらしい。男の場合は薬を使ったりせず、自然治癒を待とうということになり、何もせず放免されることとなった。この原因不明の病気に罹ってしまったことが、男の人生を大きく変えることともなる。