神楽坂のキャリアコンサルタント

永らく「神楽坂のキャピタリスト」のタイトルで発信をして参りましたが、この度タイトル名の変更を致しました。

「走れメロス」再々読

macky-jun2009-06-22

 今日はJ社の夕方6時から始まる株主総会に出席した後に、また同業のMさんと去年と同じ「餃子の福包」で一杯やる。彼とは十数年来の仲で、年も同じなので、気楽に話が出来るのがとてもいい。明日も別の会社の会議で、同席することになる。キャピタリストの業界では、社外の同業者は運命共同体で、仲間意識が強いのがいい。
 今日は、その友情に相応しい話を、最近なにかと注目を集めているあの方の作品を再読した。そう、太宰治の「走れメロス」である。小学校の時に初めて読んで、その後も、高校時代に読んだだろう。確かに、友情の美談であるのだが、50を越えたオヤジが読むと、昔のように、そう素直には読めないのである。
 なぜ、メロスは本人の許しも得ずに、セリヌンティウスを「あれを、人質としてここに置いて行こう。私が逃げてしまって、三日目の日暮まで、ここに帰って来なかったら、あの友人を絞め殺して下さい。」などと勝手に決めて、暴君ディオ二スに約束してしまったのだろう。甚だ身勝手な、信じられない、超自己チューな男である。また、その三日間のメロスの心の揺れ動きが、描写されているが、なんと倒錯した英雄気取りなのだろう、と呆れてしまうというか、白けてしまう。
 また、冒頭の一節「メロスは激怒した。必ず、かの邪智暴虐の王を除かなければならぬと決意した。」とあるが、街で会った者の噂を聞いただけで、頭に血が上って、王城に入って行って、あっけなく捕まってしまう。王には何か政治上の理由があったのかもしれない。事実関係を十分に確認もせずに、激情に走ってしまう、危険人物としか思えない。捕えられて、磔になろうとも、この時代であれば、しょうがないのではないだろうか。そして、帰り道であった苦難を乗り越えた自分を、自画自賛してしまうナルシストでもある。本当に偉いのは、友人のセリヌンティウスである。理不尽な、人質に捕えられながらも、不満の一つも言わなかった。メロスを「たった一度だけ、ちらと君を疑った。」と言い、私の頬を殴れ、と優しく微笑むのである。
 この小説をいまにして読むと、メロスは単純な阿呆で、本当に気高いのはセリヌンティウスであり、この二人を試すべく、試練を与えた暴君ディオ二スは、ひょっとしたら、神様の化身ではないか、と思えた次第である。やっぱり、小学生の読み方と、高校生の読み方と、50を越えたオヤジの読み方は、その人生経験の分だけ、だいぶ違うようだ。それは、社会の垢にまみれて、すれてしまったということかもしれない。しかし、年代それぞれで感じ方が違う、これが文学の醍醐味ではないかと思えた。