神楽坂のキャリアコンサルタント

永らく「神楽坂のキャピタリスト」のタイトルで発信をして参りましたが、この度タイトル名の変更を致しました。

清水佑三さんに捧ぐ(その5)ーお別れの会に出席してー

macky-jun2008-05-29

  日本SHLの清水佑三元社長のお別れの会が、ホテルオークラ本館1F平安の間で本日午前11時から開かれ、出席した。献花をした後に、お清めということで立食パーティーの席が裏に設けられた。会場には清水さんが笑顔で書斎の机に向かう写真を始め、数々の写真のパネルが飾られる。また、清水さんの著作10数冊が並べられたコーナーがあった。写真パネル前では涙を浮かべている女子社員の方々がいた。
 日本SHL社の社葬という形でもあり、懐かしい顔に出会えた。監査役のAさんはじめ、元常務のYさん、秘書のIさん。また、清水さんの実兄で会場でもあるホテルオークラの副社長をされている紘一郎氏、そして御子息で長男の直哉さんとも話ができた。
 皆さんの話を総合して分かったことは、H14年にガンを発病されて、ずっと病魔と闘って来られた。H19年に手術や抗がん剤の投与の話もあったが、本人の方針で一切受けなかったこと、食餌療法でガンを克服されようとしてきたこと、H20年に入り、かなり悪くなられて、末期が近づいていることを本人は知っていたこと。
 もっと衝撃的だったのは、清水さんに最後にお会いできた4/1の13〜14時の1時間であったが、その日は新入社員の入社式が午前中にあり、かなり本人の具合が悪そうだったので、秘書のIさんが帰るよう勧めたが、会うと言って約束通り面会をされたこと。長男の直哉さんからは「父の頭は朦朧とされていたのでは?」と聞かれたが、決してそんなことはなかった。声は出なかったが、相変わらず理路整然とされていた清水さんだった。しかし、その後14時に別のお客に30分程会って、熱海の自宅に帰宅されるが、倒れてしまい、初めてモルヒネを打つが、以降、寝たきりの状態になったらしい。4/4以降は昏睡状態に陥り、会話もろくに出来なかったらしい。4/10の13:15に永眠。享年64歳。
 それ程、具合が悪かったのに会いたいと言ってくれ、1時間も会ってくれたこと、良い文章を書くにはどうしたらいいかとアドバイスしてくれ、気付かせてくれたこと。あのIPOの記念パーティー席上で言ってくれたように、俺のことを最後まで恩人と思ってくれていたのではないかと勝手に邪推している。ほとんど出ない声で「素質があるので頑張れ」と最後に言ってくれた。
 清水さんのご長男直哉さんが俺のブログを既に読んでくれており、いたく感心してくれていた。自分の知らない仕事をしている父のことを知れて、感謝してますと、言ってくれた。文章中の会話は父らしかったし、交渉の中で相手を怒らせてしまうのも正に父ならあるな、と思っていたとのこと。直哉さんは才気煥発で、言葉が次から次へと出てくる清水さん譲りの息子さんだった。親子の会話の中でも、いつも冗談なのか本音なのかわからないところがあったらしい。最後の直哉さんに向かって言った言葉が「(お前も)成長したな。・・・うちの会社の株価は。」と最後まで、おちをつけ、冗談を言っていたらしい。
 秘書のIさんから4/1と4/9のどちらかを指定されて、早い方が・・ということで、あの4/1にお会いできて本当に良かった。4/9を選択していたら、一生後悔することとなったろう。