神楽坂のキャリアコンサルタント

永らく「神楽坂のキャピタリスト」のタイトルで発信をして参りましたが、この度タイトル名の変更を致しました。

(5)−漱石の歩いた町−

macky-jun2008-02-10

 夏目漱石の記事が今日の朝日新聞に載っていた。昨日が漱石の誕生日で、彼が晩年を過ごした家の跡地にある新宿区立漱石公園(早稲田南町)のリニューアルの式典が行われた。漱石は亡くなるまでの9年間をこの家で過ごし、「漱石山房」と呼ばれ、数々の名作を創作したばかりでなく、芥川龍之介や阿部次郎や小宮豊隆森田草平ら門下生が集まる場でもあった。
 山房は45年の空襲で焼け、76年に跡地の半分の約1千平方メートルを使って、漱石公園となった。だから、漱石の家は約600坪の広大な屋敷であったことになる。我が家からも歩いていける所にあり、かつて行ったことがあるが、漱石の胸像があるくらいであまりぱっとしない公園だった。施設の老朽化に伴い、有志の地元住民や有識者らが3年前からどのようにリニューアルするかを検討してきた。かつて山房にあったベランダ回廊を再現し、漱石紹介のパネルやイベント掲示のあずまやを作った。近々行ってみようと思う。
 早稲田から神楽坂にかけては漱石のゆかりの地が多く、夏目漱石を偲び、散歩するのも楽しい。漱石が生まれた喜久井町の生家は終焉の地である山房からそんなに離れておらず、7〜8分の所だ。生家の前の坂を夏目坂という。前に私が住んでいた矢来町は漱石の妻・鏡子の実家である中根家のあったところで、今は新潮社の本社屋になっている。
 漱石は山房で日本文学史上に燦然と輝く作品を多数創作したが、「三四郎」「それから」「行人」「こころ」「明暗」…等、晩年の名作揃いである。作品の中にも神楽坂が多数登場する。特に我が家の近くにある日本出版クラブ会館や光照寺のあたりは戦国時代にこの一帯を治めていた牛込氏の居城である牛込城があった所だ。この付近の袋町に「それから」の主人公である長井代助の家があることになっている。かつて藁を商う店があったことから、通称”藁店(わらだな)”という現在の地蔵坂を美千代が訪ねてくるシーンが美しい。
 また、地蔵坂を下り、右折し、神楽坂通りにかつて漱石が通った洋食の田原屋があった。文房具屋の相馬屋は健在だ。毘沙門天善国寺はたびたび登場する。漱石が17、18歳の金之助時代に芸者とトランプをしたのもこの界隈らしい。もっと飯田橋のほうに下っていくと「坊ちゃん」の主人公の母校である東京物理学校(現在の東京理科大)がある。
 かつて漱石がどんなことを考えながらこの町を歩いていたのだろうと、空想を巡らしながら漱石になりきって神楽坂を散歩する。そういえば、漱石は私と同じ年令の49歳で亡くなったが、もっとずっと年配であったような気がする。明らかに貫禄負けしているが、昔の人は総じて老けていたように思う。漱石同様に私も髭をたくわえているが、片や明治の大文豪で小学生でも知っている偉人に対し、こちとらまだ大した仕事もしていない無名人。う〜情けない。まだまだくたばるわけにはいかない。