神楽坂のキャリアコンサルタント

永らく「神楽坂のキャピタリスト」のタイトルで発信をして参りましたが、この度タイトル名の変更を致しました。

野球の思い出

macky-jun2008-02-01

今朝の朝刊、オリックスの清原の記事が面白かった。巨人にいたパウエル(そんな選手いた?)がオリックスソフトバンクとの二球団に二又をかけ、契約をしたという前代未聞の事件が紙面を最近賑わしていた。今期、二軍キャンプからスタートした清原が「信じられんな。あれはあかんやろ。あいつの登録名は「お金」や。「マネー」ではカッコよすぎる。」と不快感を示し、「ソフトバンクに行ったら、「お金くん」との対決が楽しみや。バットに1万円札巻いて勝負したるわ。」
 清原は選手としては話題になることは少なくなってきたが、グラウンド外では相変わらずこんなおもろいこと言えるなんて、まだまだ元気でやれそうですね。
 実は小生、そのまた 昔は大の野球少年だった。このブログでは殆どスポーツには触れてこなかったが、元々はスポーツ大好き、学生時代は体育会の部活人間だったし、大人になった今はやるスポーツはすっかり減ってきたけど、年数回のゴルフと年3回位の登山と最近はあまり行かなくなったけどスキーと週2回通うジムくらいです。
 スポーツ観戦は幅広く好きだ。最近はハンドボールが面白かった。バスケとサッカーを併せたようなスポーツだけど、結構激しく、躍動的でカッコいい。なんで、今まで目立たなかったんだろう。日本は男女とも残念ながらオリンピック出場は決まらなかったけど、アラブのいい加減な審判のお陰で、このスポーツが認知される結果となった。そういえば、最近我が家によく遊びに来るN君も中・高・大とハンドボールをやってきた選手だ。
 小学校の頃は、近所の野原で毎日、草野球をやって過ごした。当時住んでいた目黒でもマンション開発される前の広い空地がいたるところにあり、そこに放課後集まり、皆で草野球に興じた。のどかな時代で、今のように柵で囲われることもなく、空地が子供たちに開放されて、自由に使うことができた。そうしたでこぼこの土の上で時には怪我しながらも、駆けずり回った子ども時代だった。今は外で殆ど子供の姿を見ることはなく、たぶん自宅でファミコンでもやっているのだろうと思いながら、俺達の時代のほうが遙かに幸せだったんじゃないかと思う。
 入学した区立の中学はグラウンドが狭く、野球部がなかった。残念だったけど、しょうがないから当時人気のあったバレーボール部に入った。この部は名門クラブでかのミュンヘンオリンピックで金メダリストになった木村、嶋岡両選手を輩出したチームで都大会でも優勝実績のあった大変なチームだった。結局、俺はこのチームでは球拾いしかさせて貰えず、1年も居ずに部を辞めた。そのあと、テニス部にしばらく在籍したが、満足できず、当時、担任だった体育のF先生と、自ら野球部を創ることにした。F先生は熊本県から甲子園に出た高校球児で、本当は御自身も野球をやりたくてしょうがなかったんだと思う。そこに、俺たちがうまく乗っかったというわけだ。俺もただ辞めたわけではなく、バレー部からは野球好きな仲間を2人、次に入ったテニス部からも仲間4人を勧誘して引き抜いた。残ったクラブメンバーからはさぞや恨まれたことだろう。
 しかし、そのくらい俺たちの年代は皆、ガキの頃から野球には親しんできたし、野球が大好きだった。クラブを創部したことで夢をかなえた。実は創部までにはいろいろな苦労話があり、それについて触れると長くなるので、また機会をあらためたい。