神楽坂のキャリアコンサルタント

永らく「神楽坂のキャピタリスト」のタイトルで発信をして参りましたが、この度タイトル名の変更を致しました。

マイルス・デイビス没後20年

macky-jun2011-09-28

  今日9/28はマイルス・デイビスが65歳の生涯を閉じた日であり、没後ちょうど20年になる。先週日曜日にやっていたNHKアーカイブス「ジャズの帝王マイルス・デイビス没後20年」を観た。私は大学1年の時、マイルスを初めて聴いてジャズの世界に入っていった。奥深いジャズの世界を覗き、彼によって愉しみがまた一つ広がっていった。
 武蔵小金井新星堂で「Kind of Blue」「Round About Midnight」「スケッチ・オブ・スペイン」「Milestones」のアルバムをまず購入した。店員のお兄さんが親切にいろいろと教えてくれた。Be Bopの世界からマイルスがMode Jazz やModern Jazzの世界を拓き、ジャズ界の帝王の位置を確立していった大事なアルバムだ。マイルスのトランペットはミュートを使い、中音域の静かな繊細な音を出すことに特徴がある。
 マイルスは米国イリノイ州アルトンに生まれ、セントルイスに転居、父親が歯科医、母が音楽教師というとても裕福な家庭で育った。当時の他のジャズプレイヤーに比べ豊かで、メイドやコックがいたという。まさに「ぼんぼん」であったわけで、不良チャーリー・パーカーのバンドに入ったが合わなかった。小柄(167cm)で痩せていたため馬鹿にされたようだ。白人のギル・エバンスと出会い、新しい音楽を求めたが、ソロをやりたいと拘りを持っていた。じきにマイルスの下に有能なミュージシャンが集まってきた。ジョン・コルトレーンビル・エバンスキャノンボール・アダレイレッド・ガーランドポール・チェンバース・・・などである。そして、ハービー・ハンコックロン・カータートニー・ウィリアムスなどが加わる。第2期黄金クインテットである。いずれもジャズ界を代表する凄い顔ぶれである。
 既に大人の音楽であるジャズの中心にいたマイルスは、ある新人音楽家の出現に衝撃を受ける。それがBeatlesである。若者の関心は彼らの音楽であるロックに移っていった。ここでマイルスは築いてきた現状に留まることなく、自分の音楽を大きく変え、挑戦していく。アルバム「ビッチェズ・ブリュー」に代表されるクロスオーバーまたはFusionと呼ばれる音楽の誕生である。彼の下には若手の有能なミュージシャンが集まることになる。チック・コリアウェイン・ショーターキース・ジャレットジョン・マクラフリン・・・などだ。後にFusion、Jazz界を引っ張っていくスターになっていく。「マイルス学校」と言われる由縁であり、ジャズ・Fusionの系譜は彼と共に演奏していたメンバーを中心に築かれていくことになる。「ジャズを知るならまずマイルスから聴け」と言われるのはそのためだろう。
 マイルスはこの後も現状に甘んじることなく、スタイルを変え続けていく。ファンが期待する過去のマイルスの音楽が演奏されず、ときに聴衆をガッカリさせたようだ。「過去の曲を聴きたかったらアルバムを聴いてくれ」と言ったそうだ。75年に一度引退し、80年にまた復帰する。私は87年のミュンヘンで一度だったが、マイルスを聴きに行ったことがあった。亡くなる4年前のことだった。とても小柄だったのが印象的だった。私の聴いてきたマイルスの音楽ではなかったので、やはり昂揚感はなかった。
 晩年はブラック・ファンクに傾倒し、マイケル・ジャクソンやプリンスをライバル視していたとも言われる。既に確立した大御所の位置に安住することなく、常に革新を続けたマイルスを人は偉いと言う。しかし、マイルスは単に飽きっぽかったのではないかと私は思っている。