神楽坂のキャリアコンサルタント

永らく「神楽坂のキャピタリスト」のタイトルで発信をして参りましたが、この度タイトル名の変更を致しました。

母校を訪ねて

macky-jun2011-07-24

  先日、さる用事があって母校を訪ねた。国立の街の雰囲気は昔のままだったが、僕らがよく通った喫茶店や居酒屋はもう無かった。夏休み前の平日の午後だったので、学生がたくさん居て、自分も学生時代に舞い戻ったみたいでとても懐かしい気分になった。武蔵野の雑木林に囲まれ、キャンパスに点在するロマネスク建築様式の建物は美しい。学園祭で飛び込んだ図書館前の池も緑の水を湛え、静かに昔のままの姿をとどめている。
 大学4年の時に書いた論文のコピーを手に入れたかったのが、この日訪ねた理由だった。僕は総じて授業にもあまり出席しなかったし、凡そ勉学熱心な学生ではなかった。キャンパスには連日通ったが、専ら東校舎にあった部室に直行するのが常であった。その僕が卒論に先立って、内藤章記念賞論文というのに応募したのだった。何故、この僕がそんな気を起こしたのだろうか?
 ゴルフコンペでもドラコンとかニアピンとか賞品が絡むと、俄然勝負強くなる性質の僕は賞金につられたのではないだろうか。どうせ卒業までに卒論を仕上げなければならないなら、その要約を兼ねて早めに書き始めてしまおうと、当時の僕は妙に計画的だったのだ。締切日当日の朝まで、4日間ほぼ連日徹夜をして書き上げた論文を、学務課に提出した時の晴々した気持ちは今でも覚えている。
 そんな一夜漬けの論文が二等に入選した。一等は我がゼミ幹の秀才Y君だった。3月の表彰式には、ヨーロッパに卒業旅行中でもあった僕の代わりに、父が出席した。父にとっても母校であった同大学に鼻高々で出席したようだが、応募したのがわずか5名だと聞いてガッカリしたようだ(「二番じゃ駄目なんですか」蓮舫)。賞金3万円を頂いたのだった。
 この日は学務課、図書館を訪ねたが、同論文を管理している担当者が居らず、分からずじまいだった。後日、連絡をとり、郵送でコピーを親切にも送って頂けました。「ケインジアン-マネタリスト論争 -基本的見解及び裁量的政策の有効性-」と大げさな論題の、30年前に浅学の若造が書いた、恥ずかしい論文を読むのには勇気がいりました。しかし、意外にもまともなことが書いてあり、論文の体裁も整っているのには驚いてしまった。
 この日、写真の図書館閲覧室を覗いてみましたが、僕らの頃と同様に学生はまばらでした。こんなに立派な施設を持ちながら、勿体ないことです。自分を省みずに、よく言うなと思いますが・・・。恩師の花輪先生が言ってくれたように「学問は一生のこと」。思った時が勉強する時なのでしょう。学生時代の不勉強分の「勉強遅れ」が僕には来ているようです。