神楽坂のキャリアコンサルタント

永らく「神楽坂のキャピタリスト」のタイトルで発信をして参りましたが、この度タイトル名の変更を致しました。

中学受験惨敗記

macky-jun2011-02-11

   先日書いた「中学受験発表の風景」で多少なり反響を頂いたので、それに類することを自分自身の経験から書きたいと思う。時期的には中学受験はもうすっかり終わり、高校・大学受験がこれから本番を迎える頃だろうか。私にとって受験は遥か昔の話であるが、これまで中・高・大と受験ではけっこう痛い目に遭ってきた。初めて受験した中学受験のことを今日は書いてみたい。
 私のいた目黒区の小学校は教育熱心な地区であり、40年前の当時でさえクラス29名の内、数名が私立中学に進学した。私も周りの雰囲気に推され、進学を志した。日本進学教室という日曜のみの受験対策テスト予備校に、入塾試験を受けて入り、6年生から通った。ここは当時、四谷大塚と並ぶ中学受験進学塾の双璧で、その後解散してしまって今は無い。東京近郊各地から、国立・御三家(麻布・開成・武蔵)・慶応普通部中等部ほか有名校を目指す、各小学校でもトップクラスの子供たちが集まってきた。当時、原宿竹下通りを抜けて、東郷会館の隣に在った社会福祉事業大学が会場であり、毎週日曜日通ったのだった。中高生の聖地竹下通りは今とは違ってとてもひっそりとした普通の通りだった。 
 毎週、試験範囲が指定されてテストが行なわれ、前週の順位がプリントで配られる。これが毎週繰り返し行なわれる。だから、範囲を参考書や問題集を選んで、勉強するのは自分自身である。自分で計画的に勉強することが望まれる、自学自習を促される自立したカリキュラムだった。自分の名前をそこに載せたくて頑張った。だけど、当時の受験はいまと比べれば相当呑気で、人一倍遊びもしたし、野球もしたし、勉強もした。そんな中での受験だった(そもそも6年生から準備するなんて、今では完全にアウトだよね)。
 ここでそこそこいい成績を採っていた私は、国立のG大世田谷中を第一志望にし、滑り止めに御三家の次にいたK中を受けた。今から思えば強気で無謀な選択と言えるかもしれない。それでも模試の成績や過去問からは合格できるだろうと自分なりには考えていました。所謂、勘違い野郎ですね。
 2/1、先ずはK中の受験、私のすぐ隣にあったスチームストーブが熱く、頭に血が上り、滑り止めにもかかわらず、惨敗。2/7・8が本命のG大世田谷中で、そこそこ出来たと思ったが、これまた討ち死に。グラウンドが広く、ここの野球部に入るのが夢だった。面接でも朗々とその希望を述べていた。初受験で思いもよらぬ惨敗で、人生初めての挫折でした。実はこれからが言いたいことなのですが、前置きが長くなってしまいましたので、翌日に続きます。