神楽坂のキャリアコンサルタント

永らく「神楽坂のキャピタリスト」のタイトルで発信をして参りましたが、この度タイトル名の変更を致しました。

 従兄のHくんのこと

macky-jun2010-03-07

 昨日は4歳上の従兄のHくんと三鷹駅で待ち合わせ、父の見舞いに行ってきた。父は元気にリハビリに取り組んでいたが、なかなか以前のようには歩けそうにない。Hくんと昔話を楽しそうにしていた。Hくんの父(伯父さん)と学生時代に5年間も米軍キャンプの宿舎で、一緒に生活をしていたことなどを楽しそうに語っていた。当時、父はバイトで米軍の翻訳とか通訳をしていた。年寄りにとっては昔話は何よりの特効薬だ。
 その後、神楽坂に出て、加賀屋という居酒屋でもつ焼きや煮込みや刺身をつまみに飲んだ。ホッピーの飲めるような気楽で賑やかな店だ。土曜日なので5時過ぎなのに飲み始めている人が多かった。
 彼は日経新聞の記者で、5日前から大久保に住み始め、外国人の街(コリアンタウン)を特集ルポしていく予定です。家族と離れ、1ヶ月間アパート暮らしで取材をします。外から見るのではなく、そこにじかに住んで、じっくりと現場に切り込んでいくという大胆なスタイルです。実は昨年も、豊橋のブラジル人団地にやはり1ヶ月間住み込んで、取材をして好評だったようです。日経夕刊に載る予定です。編集委員でもあるベテラン記者なので、自分で全て企画し、自由に取材・編集ができるようです。
 彼には子供の頃から、いろいろと影響を受けてきた。文学を読み始めたのも、Beatlesに夢中になったのも、また勉強法もいろいろと習った。高校時代に数学を教えて貰っていたこともあった。彼の下宿(荻窪→中野)に通っていたが、勉強以外のことを教えてもらうことも多かった。彼は東大仏文を出て、小説家になるつもりだったが、何故か新聞記者になった。しかも凡そイメージとは遠い日経新聞だった。上の兄弟のいなかった私にとっては、まさに兄貴のような存在だった。
 そういえば、昨日夕刊の最終頁(10面)の「文学周遊」で『庄司薫「赤頭巾ちゃん気をつけて」−東京・日比谷高校』を取り上げ、署名記事で書いていました。これも彼の趣味で、選んで取材をしたようです。私も当時、影響を受け、庄司薫4部作を読んだものでした。それにしても、庄司薫はピアニストの中村紘子と結婚したが、1977年以降は小説を発表していない。何をしているのだろうか。
 「赤頭巾ちゃん気をつけて」はかつて東大合格者全国一の超名門校だった時代の日比谷高校が舞台である。主人公薫くんは庄司が在学したよりも10数年後の時代を描いている。「あんなにもいやったらしくキザで、鼻持ちならねほどカッコよく気取った高等学校はなかった」と庄司は母校を愛情を込めて描写した。自主自立で、1時限100分の授業は生徒の発表が中心で、クラブ活動が盛んで、受験勉強をしているところなどは他人に見せず、極め付きが生徒が先生を選ぶクラス替えのシステムだったという。まさに「鼻持ちならない日比谷高」である。超優秀な生徒たちが集まったから、そうした自主自立な運営が出来たのだろう。64年193人の東大合格者を出したが、学校群制度導入後、年々減少し、93年にはわずか1人に。現在は都の改革で、2007年には28人が合格するところまで復活したらしい。だけど、超名門校の復活は二度とないのだろう。同じくかつての名門都立高校を出た身としては、とても残念に思っている。