神楽坂のキャリアコンサルタント

永らく「神楽坂のキャピタリスト」のタイトルで発信をして参りましたが、この度タイトル名の変更を致しました。

 母の実家

macky-jun2010-02-08

  今日、親父の入院する杏林病院から携帯に留守電が入っていた。かけ直すと、リハビリ病院への転院の件だった。三鷹の北口にある病院に空きが出たのでどうか、とのことだった。勿論、OKであるというか、願ってもない話だった。駅からバスに乗るとはいえ、実家の小金井から比較的近い場所でよかった。また、母にとっては今は長姉が住む実家も近いので好都合だし、懐かしい場所だろう。
 玉川上水沿いの武蔵野浄水場近くの母の実家は、私や妹にとっても懐かしい場所である。5歳下の弟が生まれる、1〜2か月をこの場所で送ったのだった。子供時代に自宅を離れて、暫く過ごした唯一の経験だった。当時、祖母と叔母が住む、古い武蔵野を感じさせる平屋の広い一軒家に、私たち幼児二人が預けられた。当時、この三鷹から武蔵境の界隈はまだ武蔵野の雑木林が至る所に残っており、畑も多かった。まさに、国木田独歩の「武蔵野」の世界であり、「昔、この上水で有名な作家が亡くなった。」と祖母から教えられた玉川上水はゴーゴーと水嵩も多く、とても急流で、子供心に怖い思いをした。その作家とはわずか15年前(昭和23年)に自殺した太宰治のことだと、後になって気づいたのだった。 
 その家の近くを浄水場に溜まった砂を運ぶ機関車が、武蔵境駅を目指して走っていた。とても不思議な光景だった。思い出はとてもいい加減なものだが、走っていたのは煙を吐き出す蒸気機関車だったように覚えているのだ。その線路跡はいまは本村公園という遊歩道になっている。まだ幼稚園児だった我々は、勿論、幼稚園を休園して預けられてきたのだから、毎日が自由時間だった。(当時の記憶では)広い庭で、砂場で遊んだり、虫を捕ったり、毎日を祖母と叔母の監視下にあったのだが、自由に楽しく送ったのだった。わずか1〜2か月だったに違いないのだが、その実、どの位の期間を預けられていたのか、よくわからないのだが、それぞれの記憶がとても鮮明に蘇えってくるのである。
 ここ何日間の妹や妻と母の会話のやりとりでは、母のボケはだいぶ進行しているようである。明らかに老人性認知症の初期である。まだ、可愛い、無邪気なボケなのだが、何とか進行を遅らせられないかと願っている。母が自分の少女時代を送った家の近くで、昔の記憶を取り戻して貰いたいと願っている。