神楽坂のキャリアコンサルタント

永らく「神楽坂のキャピタリスト」のタイトルで発信をして参りましたが、この度タイトル名の変更を致しました。

会社は刑務所か

macky-jun2009-06-30

  最近、朝早く目が覚めてしまう。昨晩は寝たのが12:30だったにもかかわらず、今朝は5時過ぎには目を覚ましてしまった。しょうがないので、シャワーを浴び、こうしてブログを書いている。仕事が忙しくなってくると、夜中に目が覚めたりもする。自由人のようで、その実、仕事人間なのかもしれない。しかし、50歳を過ぎてから、とんと残業というものが出来なくなってきた。疲れてしまうのである。だから、なるべくなら7時までには仕事を終えて、家路に着きたい。密度濃く、仕事を取捨選択して、効率よくやりたいものである。無駄なことはなるべくならやりたくない。若い頃は何でも手を出して、大いに失敗もするもよし、という考え方もある。しかし、この年になると無駄な仕事、やっても意味のなさそうな仕事というのは、自ずと見えてしまうので、無駄なことはやりたくない。
 どこか他に行けば、もっと楽しいしごとがあるのではないか、と考え、転職を繰り返す人がいる。しかし、それは間違いである。会社というのは、ある人に言わせれば、いわば刑務所だそうである。上司は看守、同僚は自分と同じ受刑者である。そんなところが楽しい筈はない。こういう話は欧米人には通用するが、日本人にはどうも通用しないようだ。それは「働く」ということに対する考え方が、違うからである。
 欧米の文化では、本当は働きたくない、働かなくて済むならそうしたいけど、生活のためにやむを得ず働いている、と考えている。旧約聖書で、最初の人間であるアダムが、禁断の木の実を口にして楽園から追放される。神の命令に背いた罰として、人間は働かなくてはならなくなったのです。これを「労働懲罰説」といいます。職場にいる時間は極力短くしたい。9時から5時までは仕方なく会社にいるけど、時間がきたらすぐ帰る。それが彼らの発想です。
 一方、日本人は農作物を作ったり、魚を捕るのは神々からの委託であり、働くことは、神々に仕える為の大事な神事である、と考えられてきました。働くのは義務であり、神聖なことである。こうした考えを「労働神事説」といいます。労働は神事だから、理想は24時間労働である。働くことがよしとされ、家にいても会社にいても仕事のことばかり考えているのを熱心だと評されます。
 日本では終身雇用制度という特有の慣行があり、滅私奉公的な労働が続きました。しかし、近年の日本の会社は変わってしまった。会社の業績があやしくなると、簡単に社員はクビを切られ、リストラされる。働き過ぎで、体を壊したり、家庭がうまくいかなくなっても、会社は責任を取ってくれない。「自己責任」という便利な言葉で切って捨てられるのが関の山だ。
 かつて日本企業は、「家族的経営」といわれ、若い頃に奴隷のように働けば、歳を取ってからも面倒を見てくれる、という不文律がありました。しかし、「自己責任」と「成果主義」の導入で、会社は社員の面倒を見なくなりました。リストラ、早期退職制度、年金基金の解散など、どの企業でも大々的に進められました。会社は家族同様であった社員を見放した。会社は所詮刑務所なのであろうか。