神楽坂のキャリアコンサルタント

永らく「神楽坂のキャピタリスト」のタイトルで発信をして参りましたが、この度タイトル名の変更を致しました。

1960年代の記憶 

macky-jun2008-09-23

  今日は秋分の日。暑さ寒さも彼岸まで、というけれどまだまだ暑い日々が続いている。日本の夏は徐々に長くなっているような気がする。今や、5月から9月いっぱいが夏だとすれば、5ヶ月間、1年の約半分が夏ということになる。来週からはクールビズも終わって、ネクタイに戻る。ネクタイは嫌いではないし、むしろこだわりを持っている方だけど、日本のこの湿度の高い気候には合わない。少なくとも夏には絶対合わない。ハワイのようにアロハで仕事をしたいくらいだ。
 シャワーを浴びながら、ラジオを聴いていたら、1960年代の特集をやっており、その当時のヒット曲が流れていた。ザ・タイガース「花の首飾り」、ザ・サベージ「いつまでもいつまでも」、中村晃子「虹色の湖」、黛じゅん「天使の誘惑」、トワ・エ・モア「ある日突然」、5つの赤い風船「遠い世界に」・・・。音楽と共に、当時の記憶、普段は忘れていた記憶が蘇ってくる。脳の奥底の戸棚の引出しにしまいこんだ記憶だ。脳のメカニズムは誠に不思議である。
 60年代は小生にとっては2歳から11歳までの期間。70年代の方が青春真っ只中の期間で、より思い出は多い。60年代は幼児から小学児童の時代だ。父親の転勤で、家は山梨→中野→目黒と約5年毎に引越しをした。時代は高度成長期ど真ん中。子供心にも社会全体が豊かになっていくのを感じた。60年代前半は戦後まだ10数年であり、街並みにも戦争の名残が残っていた。バラックのような家屋も多く、貧しさを感じさせた。子供だったので、友達の家に遊びに行ったり、路地のすみっこまで入っていったり、探検ごっごと称しては廃屋や工事現場に入り込んだ。街じゅうが遊び場だった。それ故に、大人以上に人々の生活を覗いて見ることが出来たように思う。
 年々、新しいものが誕生し、社会が変わっていった。特に東京では1964年にオリンピックが開催されたので、都心部の街並みは大改造された。首都高速道路日本橋の上を通り、江戸城の掘割や運河は埋め立てられてしまった。モーターリゼーションが徐々に吹き荒れていった。車はまだ一般庶民には縁遠かったが、テレビは普及し、68年アポロ月面着陸の頃からカラーテレビが出現した。カセットテープレコーダーが出て、声や音楽を録音・再生出来ることに狂喜乱舞した。今からすれば、ごく当り前なことだけど、当時は凄いことだったのだ。ビデオカメラが普及するのはそれから10年先のことである。電化製品の普及とともに、人々の生活は変わっていった。
 池田隼人の所得倍増計画とともに、賃金は上がり、豊かさを徐々に感じられたが、物価も年々上がり、常に物の値段は時間の経過とともに上がっていくというのが、当り前の感覚になっていた。右肩上がり経済に慣れ切ったのはこの頃の幼児体験で大きく刷り込まれたものだ。頭ではわかっても、感覚に刷り込まれていると人間はそう簡単には変われない。バブル崩壊での学習効果も空しく、サブプライムでもまたやられ、というのは、我々が高度成長期に刷り込まれた感覚から脱却できていないのではないだろうかと思う。
 1960年代というのは、先々に明るい未来があると信じられていた、エネルギーに満ちたいい時代だった。日米安保に反対する学園闘争というものを、自分たちよりも遥か年上のお兄さんやお姉さんがやっている、何か大人っぽいけど、ロマンチシズムを秘めた素敵なことのように眺めていた。社会が毎日変わっていく、それも昨日よりも明日の方がより良く変わっていく、と信じられた、ワクワクするような時代だった。