神楽坂のキャリアコンサルタント

永らく「神楽坂のキャピタリスト」のタイトルで発信をして参りましたが、この度タイトル名の変更を致しました。

高校K先生退官慰労会

macky-jun2008-04-12

  4/12(土)高校の恩師K先生が定年退官されたので、担任をして頂いた同窓生が40数名集まった。場所は母校のあるすぐ近くの新宿3丁目のビル9階にあるBarを借りきって行われた。昨年11月に30年振りの同窓会をやったばかりだったので、知った顔ばかりだった。K先生は4/14で61歳、我々が今年50歳になるので年齢はあまり違わない。だから高校の頃、先生は27〜29歳だったことになる。うんと若い熱血教師だった。
 始めに皆それぞれ、K先生に贈る一口スピーチを行った。総じて先生の日本史の授業よりは校外での印象が強くて、僕も大学に受かった時に飲みに連れて行ってもらい、先生に三鷹下連雀の下宿に泊めて頂いたことをお話した。当時19歳。今なら現職の教師が未成年者に飲酒をさせたとなったら、大事だろう。k先生は懲戒免職で今日のこのめでたい日はなかったかもしれない。大らかないい時代だった。大人として俺たちを見てくれていた。何れにしろ個々人と深いコミュニケーションを取っておられたということがみんなのスピーチからわかった。
 僕の出た高校というのはそのまた昔は東大合格者数を日比谷高校と競い合い、年間100名以上の合格者を出した大変な進学校だった。「だった」というのは僕らが入った時は既に往年の面影はなく、斜陽の一途で毎年東大合格者数は激減した。入った年が16名で、我々同学年での合格者はわずか7名だった。名門高校でありえた時代のOBからは「今のOO高校は俺たちの出たOO高校ではない」などと随分酷いことも言われた。それでも東大合格者こそ減ったが、同級生の多くは国立大学や早慶に普通に入った。
 都立高校は服装も自由で、場所柄遊びも覚えた。授業をさぼって、よく映画館や喫茶店に出入りしていた。特に1年の頃はよくさぼったので、出席日数不足で、ある科目の単位修得が心配だった。2年生に進学できた時はほっとしたものだった。入学した時はかなり上位の成績で入ったようだったので、成績がどんどん下降するのを見兼ねた1年の担任の先生から注意されたこともあった。成績は2年の中頃がボトムだった。やっていた部活も辞めてしまい、この頃が精神的に追い込まれ、一番つらかった。おまけにヘルニア(脱腸)になってしまい、入院・手術で1か月間も学校を休んだ。
 今から思えば、この1ヶ月間の離脱が、ボトムに落ち込んでいた自分を見つめ直す、いいターニングポイントになった。このままでは人間として堕落してしまう、どうしたらいいか、と考えた。この頃から猛烈な勢いで本を読みだした。苦しかったから、魂の救いを求めて、書を手に取った。文学、哲学、歴史・・・手当たり次第に、いろんなジャンルの本を読んだ。この時の習慣が今の読書好きに繋がっている。
 僕の高校時代というのは暗闇の中に光を求めるような、決して明るい青春ではなかった。体育会の部活をやり、彼女をつくってデートして・・・というような世界にいないと、置いてきぼりをくっている気がした。森田健作村野武範の出てくるドラマの世界が青春なんだと思いこまされた。「そもそも青春というのは決して明るいものではなく、真っ暗闇なんだ」と言っている作家がいた。それは随分後になってから知った。だって、将来のことが何にも決まっていないし、不安定この上ない世界にいるのだから、今から思えば、暗闇も当然だよね。
 結局、この日は3次会(ひょっとしたら4次会?記憶がない)まで行き、K先生も最後まで付き合ってくれ、Taxiで帰ったのは1時過ぎだった。学生時代の仲間と会うと、どうしても別れがたく、遅くなってしまうのがいつもの習性だ。しこたま飲んだ酒が効いて、今日、ジムはさぼってしまった。K先生これからもお元気で。幹事のM君、O君、Nさん、Hさん御苦労さまでした。
 写真は我々が高校生活を送った校舎です。今は建て替わってしまい、残念ながらありません。